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「八坂さん」「住吉さん」……神様を「さんづけ」で呼ぶ関西のご近所感

――神様も絶対的な存在として書かないのが万城目さんですよね。

万城目 神様を親しみのある存在として書いていますよね。これはインタビューを受けているうちに気づいたんですけれど、自分が思っていた神様のイメージが、人とは違うんですよ。関西だと神社のことを「〇〇さん」って言うんですね。京都なら「八坂さん」「伏見さん」、奈良やったら「春日さん」、大阪やったら「住吉さん」「天神さん」……。でも東京で「明治さん」と言う人はいないですよね。

――聞いたことないです。

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万城目 関西ではお寺のことも「お寺さん」と言うし。そういうご近所感があるんです。そこにおわす人は厳めしいとっつきにくい人ではなくて、近所のおじさんというか…。「〇〇さん」と呼んできた関西の神社仏閣への距離感が、自然とこういう縁結びの神様の書き方に繋がったんちゃうかなと思います。

「神様が人間を造ってない」日本の神話のよきルーズさ

――人間の営みのすぐ側に神様の営みがある、という感じもよかったです。「人間に祀られるから神様がいる」という考えもなるほどなと思いました。

万城目 日本の神話の特徴なんですけれど、神様は人間を造ってないんですよね。他の国の一神教は、泥だったり土だったりから人間を造るので、その後語られる神話は、人間は神が造ったものとして、絶対的な主従関係はできているんです。日本の『古事記』って、神様が生まれ、国土を作って、その後自分らの身内でめっちゃ喧嘩しまくって。で、そんな話は一切なかったのに、天孫降臨してきたら、もうなんか知らんけど、あちらこちらに人間がいるんですよね。それで何事もなく人間たちと恋愛し、不死の力を失ったりして。そのへんが猛烈にルーズというか。津々浦々に神様がいるとか、米粒一個に神様がいるという考えが大らかに広がったのは、神様が人間を造ったという最初の厳格なものがないからでしょう。日本人の神仏観の中のよきルーズさですね。それが僕も好きだし、その中で物語を組み立てていると思います。

――人間がいるから神様がいる、という感覚は昔からありましたか。

万城目 ありました。それを言語化してもらったと感じたことがあって。社会人1年目の23歳の時に、「ニュースステーション」を見ていたら京極夏彦さんがコメンテーターで出ておられたんですよ。ダムができるので村が水没するというニュースの時に「ダムができたら妖怪は死ぬ」という名言をおっしゃったんです。村がなくなるとそこにいた人間が四散するので、共同体の記憶としてあった妖怪がいなくなるという。僕は雷に打たれたかのように、「あ、そういうことや」って思いました。たぶん、そのときの京極さんの言葉を憶えているのは僕だけだと思いますよ。ご本人もまったく覚えていませんでしたから。でもそうやって誰かひとりくらい、その時その言葉を必要としていた人が拾うものなんですよ。それが10年15年と残っているんですよね。「はじめの一歩」を読み返してびっくりしたんですが、最初の2、3ページ目にはそのコンセプトが書いてあるんですね。

――縁結びの神様の一人語りの部分で、〈私のお師匠は山奥に住んでいた世間的には無名の御方で、人間たちに名前を忘れ去られて、ずいぶんむかしに消滅しちゃったよ。〉と言っていますね。

万城目 「世にも奇妙な物語」のために軽い話として書いたのに、自分で無意識にこういうのを入れていたんだなってびっくりしました。

万城目学さん ©石川啓次/文藝春秋

万城目学(まきめ・まなぶ)

1976 年大阪府生まれ。京都大学法学部卒業。化学繊維会社勤務を経て、2006年にボイルドエッグズ新人賞を受賞した『鴨川ホルモー』で鮮烈なデビューを果たす。『鹿男あをによし』『ホルモー六景』『プリンセス・トヨトミ』『かのこちゃんとマドレーヌ夫人』『偉大なる、しゅららぼん』『とっぴんぱらりの風太郎』『悟浄出立』『バベル九朔』など著書多数。またエッセイに『ザ・万歩計』『ザ・万遊記』『ザ・万字固め』などがある。

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※「小さな頃からコンプレックスがない万城目流『明るい諦念』──万城目学(後篇)」に続く