今、「万城目らしさ」というものに対する付き合いの難しさを感じてます
――2006年にデビューされてから『鹿男あをによし』『プリンセス・トヨトミ』(2009年/のち文春文庫)と立て続けに話題作を世に出し、『偉大なる、しゅららぼん』のインタビューをさせてもらったのが、作家になって5年の時です。これまで書いてきた小説が行儀よくなりすぎていたので、構成をきっちり考えないで書いたなどと、いろいろ挑戦されていましたよね。
万城目 やってましたね。「しゅららぼん」の時は本当に何も考えずに書いたらどうなるかと思って、実際やってみてこれは大変やなと分かりました(笑)。で、多少考えたほうがいいぞということで、次の『とっぴんぱらりの風太郎』(13年刊/のち文春文庫)の時は3、4割考えるよう修正かけました。
――今、節目の10年を越えて思うのはどんなことでしょう。
万城目 今思うのは、感想でたまにみる「万城目らしい」というものに対する付き合い方の難しさを感じます。
――付き合い?
万城目 たとえばですけれど、毎回毎回書くものは変わっていくわけです。そういう時にですね、「やっぱり初期の頃が好き」「中期の頃が好き」「最近のものが好き」と、いろんなコメントが当然ありますよ。自分だって他の人の小説を読む時、そういう好みの偏在はありますもん。
たとえば『悟浄出立』(14年刊/のち新潮文庫)は、それまでの空想的おかしさは全然ない作品ですけれど、あれはデビュー前の系譜なんです。無職時代の、結構真面目なものをずっと書いていた頃のものを書けて、僕としては非常に満足度が高いんですよ。本来ならばこういうものをずっと書く小説家になりたかったけれど、それではデビューできなかった。デビューして10年近く経って、ようやく一度だけああいうものも書かせてもらえた。そうすると「期待している万城目らしさが全然なかった」と言う人がいる。そういう時に「万城目らしさ」とは何を意味するんだろうと、ものすごく考えちゃうんですよ。僕の中では、本来あった原風景は『悟浄出立』のような小説なんやけど、『鴨川ホルモー』でデビューしたことで世間の「万城目らしさ」はあっちになる。この「万城目らしさ」とは何者やって。次の『バベル九朔』(16年KADOKAWA刊)はもう本当に書きたいことを書いてしまったので、これも「まったくわけわからない」という人がいる。やっぱりやりたいこと100%やったらあかんねんな、ということもちょっと思いつつ。
――『バベル九朔』や『悟浄出立』がやりたいこと100%の作品?
万城目 両方そうですね。そのときそのときやりたかったことを全部注げて。でも、たぶんもう一回同じことをやったら、だいぶ読者がいなくなるんやろうなとも思うんですよね。『パーマネント神喜劇』では「戻ってきてくれてありがとう」って。「久々に分かりやすい」「まだちょっと万城目らしさが足らへんけれども」みたいな感想を見ますね。
――そういう方の言う「万城目さんらしさ」というのは、日常のなかの非日常といった要素のことでしょうか。
万城目 そうそうそう。いわゆる「万城目ワールド」ですね。それの要素がおもろいのは分かるんやけれども、それはもう自分で選択できる服なんですよね。いつなんどきも身につけている、民族服のような一枚ではないわけで。この話書く時はその服を着るけれど、っていうクローゼットの中の一枚になっている。作為的な作風なわけですよ、言ってみれば。
――でも、『とっぴんぱらりの風太郎』についてインタビューした時、「今回はファンタジー要素を入れずに書こうと思っていたんですけれど、負けました」っておっしゃっていましたよね。
万城目 ええ、負けました。因心居士を出しました。出さないと主人公が最後大坂城まで行ける道筋が見つからなかったんです。ここからはネタバレですけど、京都の山のふもとに住んでいるただのプータローが、豊臣秀頼とお知り合いになって、最後に遺児を託されるわけじゃないですか。それは因心居士とひょうたんを出さないと、あそこまで行ける道筋が浮かばなかったんです。ストーリーの構築能力の問題ですね。
――でもファンタジー要素を入れると筆が冴えるという意味では、そういう作風のほうが向いているのかもしれません。
万城目 それはもちろん認識しておりますよ!(笑)認識しているんですけれども……。「全部おもろい」と言ってもらいたいだけなのかも。
好きなアーティストには気難しくならないでほしいなと思っていたけど……
――それと、『悟浄出立』も、『西遊記』だったり『三国志』だったりの、主役にはなれない人たちにスポットをあてて膨らませて書いているところや、奇想天外な展開に持っていくところは、「万城目さんらしい」と思いましたが。
万城目 そう読んでくれる人はなかなかいないですよ。僕だって好きなアーティストについて「初期のほうがいいなあ」とか勝手なことを思ったりしますもん。向こうにしたらいい迷惑だろうけれど。10代の頃から、こういうことを考察するのが好きで、どうして自分が大好きな方向性を、みんなやめていくんやろって思っていました。超人気者って、途中からファンと離れていく雰囲気を持ち始める気がするんです。「何やってもこいつらキャーキャー言って、俺のことほんまに見てへん」みたいな気難しさもあれば、ある程度食べられるようになって余裕ができたからか、ひとり内面に籠もっていく気難しさもあって、少しずつ方向性が変わっていってしまう。それでいて、さらにいい作品を世に出せるかというと、必ずしもそうじゃない。じゃあ、どうすべきか。「気難しくならないことだ」と20代の頃に答えを出しました。気難しくならず、みんなが好きだと思うものを出していくのが、やっぱりええんちゃうかって考えていたんですけど。
――まさに今、ブーメランが返ってきている(笑)。自分についてもそう思えますか。
万城目 いや、気難しくなりますね(笑)。傾向としてよろしくないとも思うし、いや、人間とはそういうものかもしれない、これはごくごく自然な生理現象なのかもしれない、とも思って、いろいろ考えているんです。