明治時代の日本で風刺画を数多く手がけたフランス人画家ジョルジュ・ビゴーは、いまから90年前のきょう、1927(昭和2)年10月10日、パリ郊外ビエーブルにて67歳で亡くなった。
浮世絵に魅かれたビゴーは、1882(明治15)年、日本美術研究のため21歳で来日し、陸軍士官学校などで洋画を教えるかたわら、新聞に挿絵を寄稿したり銅版画集を出版したりと精力的に活動する。その後、イギリスやフランスの画報紙の通信員の仕事を得て、日本に長らく滞在した。1887年には横浜の外国人居留地を発行所として時局風刺雑誌『トバエ』を創刊。日本政府を痛烈に風刺したビゴーの漫画は、官憲から目をつけられ、圧力も受けた。
しかし、ビゴーの風刺画や、人々の暮らしぶりを描いた風俗画は、明治日本の貴重な記録となっている。明治生まれの作家・大佛次郎は、ビゴーが描いた「下駄の歯入れ屋」を見て、これは身を落とした士族の姿だと見抜いたという。それというのも、描かれた男が、剣術の稽古・修行をしてきた者の特徴である角ばった怒り肩をしていたためだ。逆にいえば、ビゴーは対象をそこまで正確に記録していたことになる(清水勲編著『ビゴーの150年――異色フランス人画家と日本』臨川書店)。
1894年に日清戦争が勃発すると、英『グラフィック』紙の特派員として日本軍に従軍、戦勝の陰に隠れた戦争の過酷な実態を伝えた。その年に日本女性と結婚し一児を儲けたが、1899年、幕末以来の不平等条約の改正にともない、それまで治外法権だった居留地でも出版活動が自由にできなくなることを懸念し、妻と別れ、息子だけを連れて帰国の途に就いた。帰国後は、挿絵や広告の仕事をし、新聞や雑誌には引き続き日本の風俗を紹介する画を盛んに寄稿している。