時価総額8兆円を超える総合情報企業「リクルートホールディングス」を立ち上げた江副浩正氏。世界に通用する大企業をつくりあげた手腕には経営者としての能力に疑いの余地がない。しかし、彼の存在は、「起業の天才」ではなく「リクルート事件」の主犯者として歴史に名を刻むことになる。
ここでは、“光”と“闇”を見た天才の生涯に迫った、ジャーナリストの大西康之氏による書籍『起業の天才! 江副浩正 8兆円企業リクルートをつくった男』(東洋経済新報社)の序章を引用。日本が生んだ天才起業家の栄光と挫折の一端を紹介する。(全2回の2回目/前編を読む)
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同じ未来を見ていたベゾスと江副
ジェフ・ベゾスと江副浩正。1987年の秋から1988年の秋までのほんのわずかな時間、ふたりの天才の軌跡が交わった。
江副がリクルートの前身「大学新聞広告社」を創業したのは、ベゾスが生まれる4年前の1960年(昭和35年)である。ふたりの間には親子ほどの年の差があった。ファイテルは創業まもないベンチャーでベゾスはそこの平社員。江副はそのファイテルを買収した会社のトップ。立場は天と地ほども違ったが、ふたりは間違いなく同じ未来を見ていた。もしあのとき、ふたりがコンピューター・ネットワークの未来について語り合っていたら、意気投合していたに違いない。
ベゾスはプリンストン大学を出てからの自分のキャリア形成について、「後悔最小化のフレームワーク」という独特の思考方法を使ってこう説明している。
「80歳になったら、自分はウォール街を去ったことを後悔するだろうか? ノー。インターネットの誕生に立ち会えなかったことを、自分は後悔するだろうか? イエス」
ファイテルを買収したときの江副も同じである。江副は社業がコンピューター・ネットワークと融合する未来を予見していた。
リクルートがコンピューターを導入したのは1968年。ほとんどの会社に電卓もなかった時代のことだ。企業から請け負っていた適性診断テストの採点にIBMのコンピューターを使った。コンピューター導入を決めたときの社内報で、江副は、日本経済新聞の『情報革命』という朝刊1面の特集記事を引用しながら、コンピューター・ネットワークへの熱い想いを語っている。
〈記事はその結びで、「第一次産業革命は農業社会から工業社会への歴史を開いたが、情報革命は工業社会の次にくる知識産業社会──知識産業が主導する未来社会を形成する、いわば21世紀への階段なのだ(中略)」と新たな可能性への追求を迫っている。(中略)わが社でもテスト事業における新たな可能性を追求すべく電子計算組織の導入を決定しました。(中略)同システムのレンタル料は、既に導入済みの1230(筆者注:IBMの機種)、同追加分および付帯費用含めて月額150万円、年間1800万円になります。これはわが社の現在の資本金に近い額です。経営的にはかなり危険性の高い投資活動です。しかし導入が遅れれば、それだけ別の危険性を大きくします〉(1967年8月11日付『週刊リクルート』)
資本金に匹敵する投資で社運をかけたコンピューターの導入から20年間、江副はずっとコンピューター・ネットワークによる「知識産業社会」の到来を待ち続けた。
そしてついに、1984年、日本でも通信の自由化が決定する。日本の通信を独占していた日本電信電話公社(電電公社)が民営化されNTTになると同時に、民間企業に通信事業への門戸が開放された。江副は、情報通信分野に怒濤のような投資を開始する。1987年のファイテル買収はその流れの中で打った重要な布石のひとつだった。