ほとんどの会社には電卓もなかった――1968年、リクルートの創業者である江副浩正氏は、莫大な投資でコンピューターを導入した。コンピューター・ネットワークによる「知識産業社会」の到来を予見したからだ。それから20年、ついに江副の予見が現実ものとなる。江副は新時代のビジネスに飛び込んだ。時代の最先端を走った男の周りには、これからの時代を背負って立つ人材が集っていた……。
ここでは『起業の天才! 江副浩正 8兆円企業リクルートをつくった男』(東洋経済新報社)の序章を引用。インターネットが社会に普及し始める前から、インターネットの可能性を見抜き、さまざまな手を打っていた日米の天才たちの印象的なエピソードを紹介する。(全2回の1回目/後編を読む)
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グローバル化が始まった証券の世界
有馬誠がリクルートに入社したのは、1987年(昭和62年)8月1日、30歳のときだった。
京都大学工学部を卒業後、名門企業の「倉敷紡績(クラボウ)」に入社し、同社のコンピューター事業に携わっていたところを、リクルートにヘッドハントされたのだ。有馬はその後、孫正義のもとでヤフーの立ち上げに関わり、グーグル日本法人のトップを務め、ネット情報産業を支える収益構造を築いた。のちに「日本のインターネット広告の父」と呼ばれるようになるのだから、この転職は天職と出会う、神の配剤だったのかもしれない。
銀座の本社ビルに初めて出社すると、朝、いきなり上司にどさりと分厚い資料を渡された。
「これからこの会社と提携の交渉をするから、お盆休みの間にこれを読んで、レポートをまとめてきてください」
それは「Fitel(ファイテル)」という名前のベンチャー企業の英語の資料だった。
創業者はコロンビア大学教授のグラシエラ・チチルニスキー。アルゼンチン生まれのロシア系ユダヤ人女性で経済学と数学の専門家だ。
チチルニスキーは、のちに「カーボン・クレジット(地球温暖化ガスの排出権取引制度)」の提唱者として世界的に有名になる。学究のかたわらでベンチャー企業を何社も立ち上げるやり手だった。
実家にファイテルの資料を持ち帰って読み始めた有馬は、その斬新な発想に驚いた。
このころ、証券の世界でもグローバル化が始まり、ニューヨーク─ロンドン、ロンドン─東京などで株の国際取引が本格化していた。しかしインターネットのなかったこの時代、売買に伴う情報のやり取りは電話、テレックス(電報)、ファックスで行われた。株の売買ではまず売り手と買い手が売買の約束、いわゆる約定を交わし、数日後に互いの口座で決済する。ところが電話やファックスでやり取りしていると、約定を交わしたのに約束の決済日に払い込みがない、払い込んだのに株が届かないといったトラブルが後を絶たない。確認の手段がなく、証拠も残らないから「言った」「言わない」の水掛け論になる。スムーズに決済を完了できるのは全体の半分程度という有様だった。