大川とは、ベンチャーからコンピューター・システム構築の大手にのし上がったCSKの創業者、大川功である。1980年、情報サービス産業のベンチャーとして初めてCSKを上場させ、「ベンチャーの父」と呼ばれることもある大川に、江副は密かなライバル心を燃やしていた。
有馬は、中途入社でおまけに30歳とまだ若い自分に、こんな大きな買収案件を任せる江副の思い切りの良さに驚いた。8年間、倉敷紡績でずっとコンピューターをいじってきた自分はたしかに適任かもしれないが、江副に会ったのは、もちろん、この日が初めてだ。
大きな鼻と愛嬌のある目をしたアメリカ人
一方のファイテルは、国際株取引のオンライン化を世界に広げようと、東京進出を急いでいた。日経平均は1万5000円を超え、うなぎのぼりが続いている。東京はニューヨーク、ロンドンと肩を並べる巨大市場に成長しつつあった。東京に事務所を開いたファイテルは、パートナーとなる日本企業を探していた。
ファイテルの東京オフィスは、前の年に森ビルが赤坂に完成させたアークヒルズの中核に聳え立つ白亜の高層ビル、アーク森ビルにあった。まわりにホテル、集合住宅、コンサートホールを従えた37階建てのビルは高度な情報化に対応するインフラを備えインテリジェント・ビルと呼ばれた。「バブル日本」の象徴である。ジャパンマネーに吸い寄せられた外資系証券会社などが競ってオフィスを構えた。彼らを顧客とするファイテルも背伸びをしてここに拠点を置いた。
有馬のカウンターパートになった男は、入社して間もないがプログラム開発とカスタマー・サービスの責任者だった。毎週のようにロンドンとニューヨークを往復し、その合間を縫って東京にやってくる。米国人にしては小柄な身長172センチ。大きな鼻と少し垂れた愛嬌のある目をしており、時折、突拍子もなく甲高い笑い声を立ててまわりを驚かせた。
名をジェフ・ベゾスという。
7年後にアマゾン・ドット・コムを立ち上げ、やがて世界最大の資産家になる男は、こんなところで社会人としての第一歩を踏み出していた。