「情報」が、とてつもない価値を持つ未来
株式、通貨、書籍。
どれも形は「紙」だが、本質は「情報」だ。紙でできた株券、紙幣、書籍は情報を運ぶ媒体に過ぎない。コンピューターと通信が結びつくことにより、情報を運ぶ媒体は「紙」から「コンピューター・ネットワーク」に置き換わる。やがて「紙」から解き放たれた「情報」は、とてつもない価値を持つことになる。プリンストン大学でコンピューターを学んだベゾスは、そんな未来を予感していた。
「見た目はかわい子ちゃんだったけど、中身は火星人。別世界からやってきて、地球人にうまく合わせている感じだったわ」
ファイテルの創業者CEO、チチルニスキーは2011年、『フィナンシャル・タイムズ』のインタビューでベゾスについてこう話している。
日本でリクルートと交渉するとき、チチルニスキーは自分が定宿にしている全日空ホテルに有馬たちを呼んだ。ホテルはアークヒルズの隣にあった。
ベゾスと言えば今ではスキンヘッドがトレードマークだが、20代半ばの当時はまだ髪の毛があった。その髪の毛を整髪料できっちり撫で付け、いつもパリッとしたスーツを着ていた。リクルート以外の取引先は証券会社や銀行だったからだ。
チチルニスキーと一緒にいるときのベゾスはけっして余分なことは話さない。理知的な笑みを浮かべ、静かにボスの横に控えていた。チチルニスキーが大まかな方針を決めて帰ると、ベゾスはその方針に沿ってテキパキと仕事を進めた。有馬の記憶によると「本社に聞いてみるから、ちょっと待ってくれ」という場面は一度もなかった。大学を出たてのベゾスは11人いるファイテルの社員の中でもっとも若かったが、チチルニスキーからは全幅の信頼を得ていた。
「任された」という意味では有馬も同じである。江副は、中途入社の30歳、有馬にファイテルとの交渉を全面的に任せていた。
江副とチチルニスキーの代理であるふたりの交渉はトントン拍子で進み、リクルートは日本の金融機関に対するイクイネットの独占販売権を取得した。そのしばらく後、リクルートはファイテルに12%出資する。1987年9月にはファイテルとの仕事を担当する子会社の「リクルート国際VAN」を設立し、有馬はその会社の取締役に抜擢された。
事業が始まると江副はいよいよファイテルに入れ込み、最終的には約10億円でこの会社を買収してしまった。学者のチチルニスキーにとって、ファイテルは副業に過ぎなかった。条件さえ良ければ会社を売ることにためらいはない。
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