約205万人を数える生活保護受給者数(2020年10月)。菅首相は「政府には最終的には生活保護という仕組み」があると述べたが、昨年と比べても数字は横ばいだ。生活保護受給のハードルは、条件的にも心理的にもそれだけ高い。生活保護を受給することは、どういうことなのか。実際に生活保護を経験した筆者が匿名で綴る。
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はじめて保護費をもらった日、その足でパチンコに行った。
別にパチンコが好きなわけではない。そもそもパチンコに行く習慣もない。パチンコは何年も前に友人の付き合いで何回か打ったきりで、パチンコが面白いと思ったこともないし、パチンコにハマった経験もなかった。それでも保護費をもらったのだからパチンコに行かねばなるまいと思った。
自分は生活保護受給者なのだから、パチンコを打たねばなるまい。
パチンコ台に1万円札を吸い込ませる。そういう経験から自分の生活保護ライフはスタートした。
「生活保護」という選択肢が頭をチラ付き始めたのは2019年の初夏ごろだった。当時の自分はささやかな事業を手掛けていたのだが、自分の商才の欠如ゆえ悲惨な末路を迎えようとしていた。
手持ちの資産は底をつきつつあり、起死回生の手段はどこにも見当たらない。スタッフに支払う人件費やオフィスの維持費などもあと2か月程度が限界だ。「ナニワ金融道」に出てくる行き詰った中小企業の社長のように金策に奔走したが、落ち目の時は全てが上手くいかなくなるもので、あらゆる資金調達が上手くいかなかった。何日か死ぬほど悩んだ挙句、事業を畳むことを決意した。
事業の解散後、何人もの仲間たちとガヤガヤとやかましく働いた自宅兼オフィスにひとり残された。そしてこんこんと眠った。1週間。2週間。3週間。ずっと眠り続けた。食事はほとんど摂らなかった。
オフィスを出ていかなければならない日が近づいてきた。オフィスを出た後は当時付き合っていた恋人の家に身を寄せる予定になっていたが、次第に彼女からの連絡が滞るようになった。退去日の1か月ほど前からなかなか返信が来なくなり、退去日の2週間ほど前から完全に音信不通になった。どこにも行き場がなくなった。
この段階でようやく「生活保護」という選択肢が自分の中でリアリティを持ち始めた。家もない。金もない。体は微動だにしない。一緒に働いていた仲間も恋人も去っていった。自分には何も残されていない。残されていたのは日本国民という資格、ただそれだけだった。