私のプロモーションセールス論
イシグロ そうですね。私が一番関心があるのは、人が自分の過去の暗い部分、陰の部分にどう直面して、いかに隠そうとして、最終的にはどのように受け入れて、心の平静を持つようになるかという過程なんです。
阿川 なるほど。
イシグロ 人間はプライドがありますから、自分の失敗とか陰の部分は認めたくないと固執するところがある。しかし、もう一方に「いや、自分のすべてを見つめて真実を認めなければいけない」という思いもあって葛藤する。私の小説の多くは何が起こったかという事実よりも、その葛藤の過程の変化を描いているんです。
阿川 たしかに、そこらへんがおもしろい。今回のご本は、イギリスではいつ頃出たんですか。
イシグロ 去年の3月に出たんですが、その3カ月前の99年の12月からプロモーションを始めて、2000年の暮れまでずーっと続けてました。
阿川 エエーッ、1年間も!?
イシグロ ええ。今、イギリスもアメリカもものすごく広報活動が盛んで、一冊本を出したら、1年半から2年ぐらい世界中飛び回って自分の本のPRをしなきゃいけないんですよ。全米各都市を回ったり、いろんな言語で翻訳されたら、すぐその国に飛んで行ったり。
阿川 ご本は世界27カ国で翻訳されてるそうですが、じゃ、全部回るの!?
イシグロ はい、27カ国を回らなければなりません。プロモーターが私のもう一つの肩書きになってます(笑)。80年代から、作家が書き手、営業マン、広報マンと、全部やらなくちゃならないように変貌したんですね。
阿川 それも、80年代からですか。
イシグロ ええ、83年に、ノーベル賞を取った直後のウィリアム・ゴールディングと一緒にスペインでPRツアーをやったんですよ。彼は、72歳でしたけど、人前で自分の小説を朗読するなんて初めてだからすごくナーバスになってた。でも、私はすでにベテランだったんです(笑)。
阿川 アハハハハ。
イシグロ 小説を書いているより、プロモーションの旅のほうが面白いこともたくさんあるんですよ。でも、心の中では「ほんとは書いてなきゃいけないんだ」とか「書きたい」という思いもあるから複雑ですね。まだこれからという若手の作家が一冊書いただけでプロモーションで1年も2年も引きずり回されると、二冊目を書くのが大変になってしまうから大きな問題になってますね。
阿川 今回はスコットランド人の奥様と9歳のお嬢様もご一緒だそうですね。
イシグロ ええ。イギリスにもコンピュータ・ゲームとかアニメなんかで、どんどん日本の文化が入ってきているんですよ、「ポケモン」とか「デジモン」とか(笑)。だから、日本のもっと古い伝統的な部分を見せたいと思って連れて来たんですけど、今日はディズニーランドに行ってます(笑)。
阿川 お嬢様はお父様の国のことを何ておっしゃってますか。
イシグロ ここが私の祖国だとは思ってないみたいですよ。日本はフランスとちょっと違うなぐらいにしか思ってないみたいです。(笑)。
一筆御礼
幼少時代、年中「静かにしろ!」と怒鳴られながら育った私が騒々しい大人になり、ちっとも叱られず、大らかに育てられた(らしき)イシグロさんが、どうしてこんなに穏やかなジェントルマンなのでしょう。私もイギリスに育ちたかった。私の早口日本語質問を一生懸命理解しようとメガネの奥の瞳を静止して聞き耳を立て、聞き終えるとまず一呼吸置き、丁寧かつ誠実に、優しいトーンの美しい英語で語り出される。ときに私がイシグロさんのお話に「ついていけなくなり始めたぞ」と感じるや、すぐに察知して、通訳の方に向かい、「訳してあげて」とさりげなく促してくださる。その心遣いや反応のすべてが、イシグロさんの小説に流れる深く静かな空気と一致します。ハリネズミの謎を黙々と追い続けたカズオ少年の鋭い感性と豊かな好奇心が生き続けていることを感じます。やっぱり私がイギリスに育っても、ヒギンズ教授に出会う前のイライザにしかなれなかったかなあ。(阿川佐和子)
カズオ・イシグロ/1954年長崎県生まれ。60年父の仕事にともない渡英。ケント大学カンタベリー校で英文学を学び、イースト。アングリア大学大学院で創作を学ぶ。82年長編第一作『遠い山なみの光』が王立文学協会賞、86年『浮世の画家』がウイットブレッド賞、89年『日の名残り』でブッカー賞を受賞。95年『充たされざる者』に続き、00年長編第五作『わたしたちが孤児だったころ』(早川書房)が世界各国でベストセラーに。
構成:柴口育子