ジャーナリストが「世間をお騒がせした」ことへの非難
罪刑法定主義は、刑罰を正統性ある公権力に一元化し、制裁の恣意性と私刑を排除するためにある。しかし今回、「強制」という言葉に反応して権力の専横を警戒し、法的強制力ある措置よりも「緩やかな」指示や要請にとどめることを歓迎したのは、むしろリベラルの側だった。この国の戦後思想が国家こそ人権の抑圧者だったという記憶から出発したことを考えれば、それも理由のないことではない。とはいえ、リベラリズムが尊重すべき「法の支配」への理解を欠くものだった面は否めない。リベラルは「世間」という不明朗な規範に服した、という言い方もできる。
「安田純平は誰に謝ったのか」という散文で扱ったのは、視認も触知もできないが誰もが存在を強く感じている、この「世間」という規範についてである。
シリアでの3年4カ月に及ぶ拘束を経て2018年秋に帰国したジャーナリスト安田純平氏に対しては、主にネットで「危険を承知で行ったんだから自業自得」「迷惑な奴」「どのツラさげて帰ってくるの」などと、いわゆる「自己責任論」の合唱が起きたが、その内容は、外交や中東政策に影響を及ぼしかねないという点ではなく、まさしく「世間をお騒がせした」ことへの非難だった。仕事として危険地に赴き図らずも拘束されたジャーナリストへの負の世論の高まりは、外国メディアの特派員が「全く理解できない現象」などと発信した。(☆1)
このところ有名タレントやスポーツ選手の不倫に対するバッシングも相次いでいるが、民法が当事者間の解決事項としている行いを世間という不定形な群れが暴き追い詰めるさまは、まさに「社会的リンチ」という言葉が浮かぶ。そして、こうしたネタをせっせと提供し、それをゴシップとして消費する世間を真に「騒がせて」いるのは、実はジャーナリズムである。
私自身も幾度も関与してきたことを告白するが、たとえばワールドカップで活躍した選手や五輪のメダリストについて、日本のメディアが同級生などあらゆる関係者を探し出して取材し、出身地が郷里の英雄を称える様子を「演出」する姿は、異様としか言えないものだ。よく似たことは、凶悪事件の報道でも起きる。容疑者が成人であっても、注意深く見れば明らかにその家族を追い込み「親の責任」を問うような内容に仕上がっている。こうした報道は、日本以外の国ではほとんど見たことがない。功成り名を遂げた人と、重罪人もしくは「世間をお騒がせした人」、この2つに世間が示す反応は、正反対に見えて、同じ現象のネガとポジである。古くは虎ノ門事件(☆2)の難波大助、連合赤軍(☆3)の坂東國男、そして連続幼女誘拐殺害事件(☆4)の宮崎勤の犯罪が、当時盛んに論じられたように、同時代の日本を映したものだったかどうかは分からない。だが、彼らの家族を襲った不幸(集団的過熱取材、村八分、一家離散、父親の蒸発や自死)は、いまも変わらぬ日本社会のありようを示している。
血縁や地縁が希薄化したいま、「世間」を補強しているのは、メディアにほかならない。いや、日本のメディアこそいまや世間にほかならない、と言うべきか。