憲法9条、皇室、原発、沖縄……日本社会の大きな論点について、朝日新聞は「リベラル」の立場から主張を打ち出してきた。しかし、リベラル勢力の主張には、何の矛盾や欺瞞もないのだろうか。リベラル派の主張について、現役朝日記者が内部から検証した書籍が『さよなら朝日』(柏書房)だ。

 同書は、朝日新聞への広告掲載依頼時に、「社内外において掲載リスクが高い」という理由で、通常料金の3.3倍の出稿料を提示されたことも波紋を広げている。朝日新聞への提言を綴った同書の「まえがき」より、一部を転載して紹介する。(全3回の1回め/#2#3を読む)

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公平さに欠ける「正義」

 米国のリベラルの関心が、勤労者や階層間の社会経済的な平等から、被差別集団やLGBTQなどのマイノリティあるいはジェンダーの平等に移っていくのとパラレルに、日本にも、#MeToo運動を追い風にした第四派フェミニズム旋風(☆1)や、BLM(Black Lives Matter)(☆2)運動に端を発したアイデンティティ・ポリティクス(☆3)の荒波が押し寄せている。そして、日本のリベラルはそれをほとんど無批判に受け入れている。

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 リベラルな価値観からすれば、男女間の不平等は許されないし、男女の公的権利の差はもちろん、社会的経済的な不均衡も解消されなければならない。これには私にもまったく異論はない。リベラリズムが語ってきた普遍的「人権」が永らく「男権」に過ぎなかったことは、いくら強調してもし過ぎることはない。

 だが、クオータやパリテといったアファーマティヴ・アクション(積極的格差是正措置)的な解決手法の導入が「リベラル」な考えに沿うものかというと、ことはそう単純ではない。たとえば男女の候補者の数が半々でない場合、女性有権者が女性だからという理由で女性候補者に票を投じるとは限らない。端的に言って、議席数をあらかじめ割り振ってしまう「制度としてのパリテ(あるいはクオータ)」は、男性の被選挙権だけでなく、女性の選挙権を侵害していることになる。

 問題は現実が理想を裏切っていることにあるのか、それとも、リベラリズムの思想自体に根源的問題があり、その解体なしに女性差別の克服や女性の解放は不可能なのか。これは大きな難問だが、私見では、差異主義的(☆4)、本質主義的(☆5)なフェミニズムは、それこそセクシズム(性差別主義)の陥穽にはまっている。同様に、伝統的なレイシズムを嫌う以上に普遍主義の反レイシズムを目の仇にした「人種主義的な反レイシズム」(形容矛盾のようだが)が台頭しているが、これも、レイシズムそのものではないにしても本質主義であり、結局はレイシズムに道を開くことになってしまう。