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 これらは本当にリベラリズムに合致しているのか――といった疑問が検証されることもなく、リベラル勢力はむしろ肩でこの風を切って歩いている。少なくとも日本では、1990年代末のフランスで多くの女性フェミニストがパリテに反対したときのような原理的かつ深い論争は、起きていない。

 原理と、現実における社会学的検証や政策論が別ものであることは承知している。しかし「マイノリティのため」「女性のため」を正義として一人歩きさせることで本来の公平・公正への志向を見失い、特定の属性や集団の利益最大化を目的とした主張をリベラルが行うことは、自らの足場を掘り崩すことになる。さらには、正真正銘の保守セクシストやミソジニスト(女性蔑視者)、オールドレイシストたちと同じ地平に自らを貶め、彼ら彼女らの居直りを呼ぶことになりはしないか。

憲法9条、沖縄、天皇――リベラル最大の矛盾

 こうした、リベラリズムを貫徹した立場からのリベラル批判の本旨を理解していながらも、「理屈は分かるが、現実においては、その主張は保守セクシズムやレイシズムの温存に結果的に手を貸すことになる」と親切に助言してくれる周囲の同僚や知人は少なくない(これまで言い忘れてきたが、私は自分をリベラルだと考えているし、私の友人の多くもリベラルを自任している)。しかしこの物言いは、リベラルが崇める憲法9条についての言説と非常によく似ている。すなわち、9条護憲論者が、いわゆる護憲的改憲・立憲的改憲論者を非難する際の「改憲派の後押しをすることになる」という言い回しと完全に相似形である。

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 9条問題は、言うまでもなく戦後日本の最大のアポリア(難題)である。そして、日本のリベラルの矛盾を最も顕わにしているのが、この問題である。

 詳細は本文に譲るが、かつての革新勢力、そして現在のリベラル勢力は平和主義を唱え、日本はそれをまもってきたという神話を内外に喧伝してきた。その裏で、九条を裏切る現実、すなわち自衛隊の存在と、日本国は明らかに(国際法上も)戦争に参加してきたという現実からひたすら目を背け、あるいはその事実を忘れ、日米安保のコストを自衛隊と沖縄に押しつけてきた。自覚的な偽善と無意識の偽善のどちらの罪が重いか、である。

©️iStock.com

 他方で、少なからぬリベラル陣営の論者は、安倍政権や改憲派、日本会議系勢力への防波堤としての機能を皇室(特に彼らが「リベラルな方」と敬ってきた現上皇)に求めてきた。国政に権能を有しない天皇や皇族へのこうした期待は、憲法の国民主権原則と衝突するうえに、昭和維新を試みた青年将校たちの超国家主義の夢想と同様の危うさを孕む。なにより、そうした一個の国父・国母的人格への親愛の情を超えた精神的依存は、リベラリズムではなくパターナリズム(権威主義)にほかならない。