いま、あえて「味方叩き」をする意味
こうした主張を朝日新聞内で唱えることにそれなりの覚悟がいることは想像していただけるだろうか。憲法9条について言えば、論説・オピニオンの分野では、いわゆる朝日岩波文化人的な識者やその系譜の論説委員や編集委員の影響力はなお強い。社論は護憲のまま揺らいでいない。フェミニズムの問題では、2020年4月に朝日新聞は「ジェンダー平等宣言」なるものを公表し、女性管理職の数値目標のほか、取材対象や識者の選定をめぐっても性別などの偏りがでないようにするとした。たとえば朝刊2面に毎日掲載している「ひと」欄登場者の男女比率がいずれも4割を下回らないことを目指すという。
数値目標を設定しなければ平等実現への梃子にはならない、という主張はおそらくそのとおりだし、字義本来の意味で「憲法をまもる」のも、望むところである。しかし、特に「男」という(選んだわけではない)属性を背負いつつなお本質主義的なラディカル・フェミニズムへの少しばかりの疑問を呈したり、差し当たりの政治的選択として護憲的改憲を主張したりすることに、肩身の狭さを感じずに済む程度の社内言論の自由は、liberal(第一の語義は「気前よい」「おおらか」)を自称する新聞社であるなら、あってほしいとは思う。
(編集部注:書籍の)冒頭に戻れば、「こんなの書いて大丈夫か」の意味は、「これほどリベラルの失墜が著しいなかで、味方叩きをしている場合か」という含意もあるのだろう。1930年代に日本とドイツで、共産主義者と右派が当時ただでさえ脆弱で劣勢だった議会や社会民主主義勢力を左右から挟撃し、自由主義の砦を破壊してしまったのと同じ愚ではないか、ということかもしれない。
8年弱の安倍長期政権下で切り崩され液状化した民主制の土台の現状を見れば、確かに、それほどまでに事態は切迫しているのだろう。立憲民主主義の基盤を回復し、いかにリベラルな対抗軸を打ち立てられるのかどうかが問われているのは、一強多弱の政治状況が続く日本だけでもない。
ただ、先に述べたように、リベラル勢力が右派やネトウヨに攻撃されるだけでなく多くの人に胡散臭がられているのは、そのエリーティズムとご都合主義によって、リベラリズムの価値そのものをひそかに裏切っている側面があることを嗅ぎ取られているからではないのか。必要とされながら孤立化しているのは、むしろ、普遍的人権をベースにして自由・平等・公正という「近代」の価値にコミットしている実践的リベラリズムの方であり、グローバリズムとアイデンティティ・ポリティクスによって内外から挟撃され危機に瀕しているのは、「近代」国民国家そのものである。まだポテンシャルのある(と私は信じている)それらの価値の忠実な守護者と認知されていないことが、リベラル勢力失墜の主因ではないだろうか。
黄昏れゆくリベラルが夜を越え再び朝日を望む日を迎えるために、まずは自らの弱点と矛盾を見つめたい。
(#2【スポーツ選手を国の英雄として担ぐ演出は「異様」 朝日新聞記者が綴る“メディアへの提言”】を読む)
注釈
☆1 第一波は19世紀末から20世紀前半にかけて高まった女性の相続権・財産権・参政権運動。第二波は1960年代から70年代にかけてのもので、女性解放運動(ウーマン・リブ)に象徴される。「女らしさ」といったジェンダー規範からの解放や、雇用や賃金の平等が求められた。第三波は1980年代末から90年代に起こったもので、第二波の問題意識を引き継ぎつつも主体性や多様性が強調された(後述するインターセクショナリティに光が当たるのもこの時期)。第四派は2010年代から始まり、SNSを利用した問題へのアプローチ手法が特徴。 #MeToo 運動はその典型。
☆2 2020年5月25日、米国で黒人のジョージ・フロイド氏が白人警察官に首を押さえつけられ、その後死亡する事件が発生。その事件を機に「Black Lives Matter」をスローガンとする抗議デモが起こり、世界的なムーブメントに発展した。
☆3 アイデンティティに基づく集団や属性を前提とし、その利益を代弁して行う政治活動のこと。ジェンダー・人種・民族・先住民・性的指向・障害などのカテゴリーが焦点化されやすいが、本質的にはある集団の他集団に対する「差異」に重きが置かれるため、必ずしも少数派である必要はない。
☆4 集団や属性間の「差異」を重視し、ときにそれを本質的とみなす立場で、「普遍主義」と対になる概念。フェミニ ズムの文脈では、普遍主義に基づけば、人は男と女という属性を括弧に入れた「人間」として尊重され、個人の能力により評価されるべきとされる。差異主義においては、「男」と「女」には差異があるという前提に立ちながら平等を目指す。クオータ制のような数の上での男女平等を目的化する考えは、差異主義と親和性が高い。
☆5 事物や人間のありようは、時間や文脈を超えた固定的な本質によって規定されていると捉える考え。本質に先立つ実存があるとする実存主義者からは批判される。フェミニズムの文脈での本質主義とは、性差あるいは女性性、男性性を社会や文化に先立つ「本性=自然」のものとして扱う考えのこと。たとえば「出産」を女性の本質として考えるなど、人には不変的で決定的な性質があるとする。
☆6 一つの共通の文化を意識的に分かち合い、その出自によって定義される社会集団のこと。
☆7 こうした「当事者主義」が昂ずれば、白人が黒人差別を問うことも、男性が女性差別を非難することも、欺瞞の一言で片づけられかねない。やがては、体験あるいは目撃した者以外に当該の問題を語る資格なしとの風潮がはびこり、戦後世代が被爆者の体験を伝えることも、本土出身者が沖縄の基地問題に声をあげることも、欠格者の烙印を押されることになる。フィクションが抉り出す文学的真実すら否定されてしまう(そうなれば、文学作品はなべて作者の経験や私生活に還元されることになる)。
☆8白人中産階級女性が中心だった第二波フェミニズムへの反発から、第三波フェミニズムにおいて注目された概念。差別や抑圧は様々な要素が「交差」(intersect)しているという考え方で、たとえば、同じ女性でも白人女性と黒人女性では経験する差別は異なり得る。米国の法学博士キンバリー・クレンショーが1989年に提唱したとされる。
☆9政治的妥当性の意。ある言葉や所作に差別的な意味や誤解が含まれないよう、政治的に(politically)適切な(correct)用語や政策を推奨する態度のこと。