「彼ら」とは違う「俺たち私たち」の集結
BLM運動は、アフリカ系アメリカ人が権力や警察からいかに不当な扱いを受けているかを多くの人に知らしめる大きな意義があったが、かつての公民権運動とは違い、私たちは同じ人間だという「共通点」よりは、アイデンティティという「差異」を押し出す傾向が強いようだ。
アイデンティティ・ポリティクスにおいては、政治のありようは政策や理念ではなく、「私たち」対「彼ら」という帰属意識に支配される。政党は、多様な利害を調整する公共財ではなく、「彼ら」とは違う「俺たち私たち」を結集するセクトと化す。
多文化主義(multiculturalism)という言葉は人によって指し示す内容や用法が多様で、広くマイノリティの文化・歴史を尊重する立場や、文化的出自を異にする人たちの共生を図るという程度の意味で使われることも多い。ただ、多文化主義の思想が先鋭化すれば、民族的・宗教的・文化的な集団の「保存」が目的と化し、内部においては個人の自律の意思や参入離脱に制約をかけ、外部に対しては「差異への権利」を打ち出し混淆を嫌い、人権や寛容など普遍的な価値をも相対化していくゲットーのような集団が「共存」する社会になりかねない。
「多様性」はきわめて大切ではある。が、それは事実として受容し平等に包摂すべきものであって、価値として追い求めれば、まさに「分断」を呼び込みそれを正当化する方便にもなり得る。アングロサクソン的な多文化主義の基礎的アイデンティティ単位は個人ではなくエスニシティ(☆6)であり、その思想は、多様性の名を借りながらも、結局は個人を特定の属性に嵌め込むモノカルチュラル(単一文化的)なヴィジョンを前提にしているとも言える。多文化主義と多文化は違う。「文化の盗用(あるいは借用)」という概念も、意匠や生活様式を特定のエスノ集団やコミュニティの固有の所有財とみなすという点において、あえて極論すれば、ゲットー主義やアパルトヘイトにつながる発想である(☆7)(さらに言えば、エスニシティだけに歴史的実体があるかのようにみなす特権化は、リベラリズムのみならずナショナリズムとの緊張関係も呼ぶことになる)。
こうした「性別主義的フェミニズム」「人種主義的な反レイシズム」とも言うべき、普遍主義とは反りの合わない「部族主義(tribalism)」的な思想は、インターセクショナリティ(☆8)の概念や潮流とも絡み合い、普遍主義の本場であるはずのフランスや欧州にも流れ込んでいる。これは、「ブラック企業は不適切な表現」「美白という商品名は控えるべきだ」といったポリティカル・コレクトネス(☆9)(PC)運動や、その劣化版としての風紀委員的言葉狩り旋風と相まって、世界を吹き荒れている(新大陸を「発見」したコロンブス像の撤去・破壊運動も広い意味ではこの流れだろう)。