文春オンライン

Kōki,の炎上に怒り心頭の工藤静香が、それでも“プロデューサー”として敏腕な理由

2021/04/09
note

当時人気絶頂だったとんねるずにも近づく

 工藤のプロデュース能力は、アイドル時代からずば抜けていた。中学2年生だった1984年に「ミスセブンティーンコンテスト」で特別賞を受賞して芸能界入りし、翌年1月に3人組のセブンティーン・クラブのメンバーとしてアイドルデビューした工藤がブレイクしたきっかけは、1986年のおニャン子クラブ加入だ。おニャン子内の派生ユニット「うしろ髪ひかれ隊」メンバーとしても人気を集めた。

1987年に発売されたうしろ髪ひかれ隊のファーストアルバム「うしろ髪ひかれ隊」

「工藤はおニャン子クラブ内でも自分のキャラを確立して渡辺美奈代や新田恵利とファンの住み分けを意識していましたが、本当にすごいのは87年におニャン子が解散してソロになってからです。解散後は人気を落とすメンバーが多い中で、工藤は右肩上がりに人気を獲得していきました。『MUGO・ん…色っぽい』、『恋人よ』など大ヒットを連発して、80年代後半には中山美穂、南野陽子、浅香唯とともに“アイドル四天王”と呼ばれるまでになりました。おニャン子時代に自分より上位だったメンバーをごぼう抜きしたことになります。所属していた尾木プロの力もありますが、工藤自身のセルフプロデュース力のなせる業でもありました。当時人気絶頂だったとんねるずに近づくなど、どうすれば自分の得になるかを嗅ぎ分け、実行する力はすごいです」(前出・スポーツ新聞芸能デスク)

YOSHIKI、そしてキムタク

 工藤は男性遍歴も豪華だ。X JAPANのYOSHIKI(55)とのロサンゼルスでの同棲生活などを経て、2000年12月にはSMAPの木村拓哉と“できちゃった結婚”。翌年5月に長女のCocomiを出産し、03年には次女のKōki,も生まれた。

ADVERTISEMENT

2019年に台湾を訪れた際の工藤静香 ©Getty Images

「よく美人の奥さんのことを“トロフィーワイフ”と言いますが、工藤の場合は逆の“トロフィーハズバンド”ですね(笑)。95年に独立して個人事務所を設立してからのプロデュースは見事のひと言。おニャン子時代からの“師匠”である秋元康氏(62)の後を立派に継いでいます。自分自身、そして娘と、昭和から令和にかけてスターをプロデュースし続けているのですから。木村との結婚だって、メリー喜多川さんを説得したのは工藤本人。15年から始まったSMAP解散騒動の時も、木村にジャニーズ脱退を思いとどまらせたのは工藤の“プロデュース”によるものと言われています」(女性誌編集者)

 最近は“Kōki,の父親”としてインスタグラムに登場することもある木村だが、平成最大のアイドルSMAPのエースという存在感はいまだに大きい。そして、それを操っているのも工藤であると言われている。