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【方針転換22年ぶり】人が「子供が欲しい」と言う時の本心は…新型出生前診断が突きつける“難問”の正体

2021/04/09
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人が「子供が欲しい」と言う時の暗黙の条件

 前掲書の中に、遺伝性難病を持つ女性が2020年1月に行われた着床前診断の審議会の途中で、傍聴をやめ退席するシーンがある。「どんな病気の人を削除していくのか」という議論に、何の反応も反論も許されないまま立ち会う辛さ、「自分の存在を否定され続ける」感覚に耐えられなくなったからだと言う。

 私もNIPTを考えるのは想像の何倍もしんどかった。前掲書を読むのも、専門委員会の中継を聞くのも、世論を収集するのも、きつくてきつくて仕方なかった。

 人が「子供が欲しい」と言う時、その「欲しい子供」には多くの場合、暗黙の条件がある。それは親の言動から百も承知のつもりだった。だが、いざ改めて多くの人の口から明確な言葉として突き付けられると、正直かなり堪(こた)えた。

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©iStock.com

 そこにあるのは決して突出して悪辣な価値観ではない。ごくごく一般的な考えだ。だからこそ余計に苦しい。どんな言葉なら響くのか。何を言う資格があるのか。分からない。

 NIPTを受ける個々人を憎む気は全くないし、これは誰かを断罪すれば済む話でもない。今後も技術は日々進歩していく。そこに法律で歯止めなどかけられない。

 ただ最後に重要だと思うことを3つ述べたい。

 一点目は千葉氏が語った以下の言葉だ。

千葉 「ダウン症の子供は要らない」と言いながら、ダウン症児に会ったことがない人の方が多いんです。会ったこともないのになんで嫌なのか。「何を恐れているのか」はやっぱりちゃんと知らないといけません。

 金銭面か。支援制度への無知か。育てる労力か。あるいは、彼らを人間と見做してないからか。これは決断を迫られる妊婦だけでなく誰もがよく考えねばならない問いだろう。

 二点目は今後の国の対応だ。8割前後とされる陽性時中絶率を公式統計として把握した時に、その数字をどう捉えるのか。課題として認識するのか否か。何らかの施策を講ずるのか否か。それは我々が望む社会像とも深く関わる。もし、障害を持たない選良だけで構成されるのが理想の社会だとしたら、私は自分がそこに属しているという感覚は持てない。

 三点目は幸や不幸を単体で生み出す人はおらず、それは人と人、人と社会との関わりの中で生じるということだ。

 もしあえて「幸/不幸」という二元論で乱暴に括れば、私の出生は幸よりも不幸を圧倒的に多く生んでいるだろう。そう思う事は今もよくある。自分も周りも苦しめ辛くさせてきた。その中には障害に起因するものも沢山あった事は否定できない。

 だが「ある属性を持つ人が困難を抱えやすい傾向にある」という問題意識と「その人は不幸で周りも不幸にする」という発想は全く違う。前者からは支援の必要性が、後者からは「いないほうがよい」という結論が導かれる。

 重度障害者も人間である。その多くは「不幸を作り出してやろう」とは思っておらず、むしろ逆に「社会に何か還元したい」という気持ちを持っている。

 それを萎えさせないためには、たとえ「建前」でも包摂を掲げなければ始まらないのだ。

ルポ「命の選別」 誰が弱者を切り捨てるのか?

千葉 紀和, 上東 麻子

文藝春秋

2020年11月30日 発売

【方針転換22年ぶり】人が「子供が欲しい」と言う時の本心は…新型出生前診断が突きつける“難問”の正体

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