「親の七光りどころか、彼女の場合はその2乗ですからね。その年の8月にはブルガリのアンバサダーに日本初かつ最年少で就任、9月にはシャネルの日本初ビューティーアンバサダーに。翌年には、パリコレでシャネルのコレクションに出演してランウェイを歩いたし、今年はとうとう化粧品のエスティ・ローダーのグローバルスポークスモデルとして日本人初の契約を果たしました」(前出・スポーツ紙デスク)
有名高級ブランドとの仕事を軒並み果たすKoki,の「プロデューサー」は、ほかならぬ工藤静香だ。Koki,の所属事務所「パープル」は25年以上前に作られた工藤静香の個人事務所で、社長を静香本人が務め、取締役には静香の母つまりKoki,の祖母の名前がある。
「ウチの娘たちは、ちょっと違うから」
「木村はSMAP解散後もジャニーズ事務所に残っているし、工藤もデビュー以降長らく大手事務所に所属していた。芸能界デビューするにあたり、大きな事務所に預けるほうが安定感があることは重々わかっているのにそうしなかった。そこには工藤の並々ならぬ娘プロデュースへの意欲があります。
『ウチの娘たちは、ちょっと違うから』と、ほかの若いタレントとは一線も二線もひく発言を以前からしていた。要は安っぽい売り出し方をしたくなかったのでしょう」(同前)
アイドル出身ながら“アーティスト”志向だった工藤
工藤本人は、いわゆるアイドル出身だ。
中学2年生のときに受けたオーディションがきっかけで、「セブンティーンクラブ」という3人組アイドルグループでデビュー。その後、「おニャン子クラブ」の一員となり、「夕やけニャンニャン」(フジテレビ系)でアイドル活動。17歳で「禁断のテレパシー」でソロデビューを果たしてからはヒット曲を連発。80年代にはトレンディドラマの常連俳優でもあった。
「工藤は、絵画でも二科展でよく入賞しているように、歌もタレント活動も“アーティスト”志向。アイドル時代のことはあまり振り返りたくないらしい。
さらに、彼女は恋多き女性でもあった。諸星和己やYOSHIKIなどとの交際も散々報じられました。木村との“授かり婚”は2000年。その前年に、木村が恋人の一般女性と別れたという噂を聞きつけた工藤が、知り合いから木村の電話番号を聞き出して積極的にアプローチしてその想いを成就させたんです。だから、木村と結婚以前の話に触れられるのはイヤがりますよ」(同前)
実は、そんな静香をずっと守ってきた存在がある。彼女の母親だ。