いまから70年前のきょう、1947(昭和22)年10月11日、東京地裁判事の山口良忠(当時34歳)が栄養失調による肺浸潤で死亡した。敗戦後の食糧難にあったこの時代、配給食糧だけではとても足りず、多くの人は食糧管理法で禁じられていたヤミ米を買って食いつないでいた。そのなかで山口は法律違反者を裁く立場からヤミ米を拒否、配給米もほとんど幼い子供たちに与えていたという。47年8月27日に東京地裁で倒れたのち、郷里の佐賀県白石町に帰省して療養していたが、そのかいもなく亡くなった。

 山口判事の死は、約1ヵ月後の11月4日付の『朝日新聞』西部本社版で報じられたのに続き、翌5日には『朝日新聞』東京本社版でもとりあげられ、広く世に知られることになる。スクープしたのは、朝日新聞の佐賀支局にいた分部(わけべ)照成という当時27歳の記者だった。分部は、毎日新聞の初代佐賀支局長の栗原荒野(『葉隠』の校訂者として知られる)から「友人の息子の判事が栄養失調で死んだ」と聞き、さっそく遺族のもとを訪ねる。そこで山口が病床でつけていた日記を借りると、夢中で筆写したという(『朝日新聞』1994年12月12日付夕刊)。

 新聞紙面で引用された日記には「食糧統制(原文ママ)法は悪法だ。しかし法律としてある以上、国民は絶対にこれに服従せなければならない」「自分は平常ソクラテスが悪法だとは知りつゝもその法律のために潔く刑に服した精神に敬服している。(中略)自分はソクラテスならねど食糧統制法の下喜んで餓死するつもりだ。敢然ヤミと闘つて餓死するのだ」などと書かれていた。

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ヤミ米が各所で摘発されていた。違法とはいえ、人々の命の糧であった ©共同通信社

 1947年11月5日付の東京本社版の記事では、分部の文章は大幅に書き換えられ、「十八号俸の判事、月収三千円(税込)足らずでは、押しよせるインフレの波では二人の子供がうったえる空腹さえ満してやれなかった」といった具合に、「薄給のために配給生活」というニュアンスが強く押し出されていた。山口の死は、当時日本を占領していた連合国総司令部(GHQ)にも衝撃を与える。連合国総司令官のマッカーサーは、三淵忠彦最高裁長官(当時)の手紙に答える形で「裁判官の威信保持のために報酬水準を確立せよ」と伝え、これが判事・検事の待遇改善へとつながったとされる(『朝日新聞』1994年12月13日付夕刊)。