ゼロリスクの安心は生まれなかった
東日本大震災で原発事故が起きた時、帰宅困難区域に指定された被災地域が多くありました。本当は100年近く経たないとすべての除染は終わらないとシミュレーションされていたのに、政府は当初、40年ほど経てば故郷に帰れるようになるとアナウンスし、被災者に安易に希望を抱かせてしまいました。本来政治家は、国民の命を守るためなら国民が嫌がることであっても決断し、発言するべきです。つまり、「100年経たないと除染は終わらない。故郷を捨てるのは苦しいだろうが、帰郷は諦め、別の場所に住んでほしい。そのための支援はしっかりするから」と、真摯に伝えれば、帰宅困難区域の住民も、ある種、“諦め”がついて移住を受け入れられる。
しかし、実際には帰宅困難区域の住民に対して「帰れるようにする」と国は安易な希望を見せたにもかかわらず、ゼロリスクの安心は生まれなかった。先の見えない現状に、地域住民が自分たちの判断で「故郷を捨てる」決断をしなければならないところまで追いつめられたのです。
本来であれば、政治は、国民に嫌われてでも、国民の盾となり、国民の命を守る選択をすべきなのです。今はよく「アスリートファースト」という言葉が聞かれますが、本当の「アスリートファースト」とは何かということでもあります。
オリンピックは国際的な“運動会”にすぎない
私は菅総理が「オリンピックを中止する」と決断すべき時が迫っていると感じています。各種のスキャンダルが発覚して菅内閣の支持率は急落してしまいました。もはや菅政権が安倍政権ほど長く続くことはありえないでしょう。ここで首相の矜持として、誰にも相談せずオリンピックを中止するという切り札を出してほしい。4月16日に行われる日米首脳会談の最後に、バイデン大統領を前に、国際社会に向けて中止を宣言したらいいと思います。それが「政治が決断する」ということです。
私は、他の人が言いたくない、目を背けている問題に光を当て、小説を書いてきましたし、発言してきました。今回もあえて申し上げますが、言ってしまえばオリンピックは国際的な“運動会”にすぎません。深刻な感染症によって世界中で学校閉鎖が続いている状態なのに、なぜ運動会の準備だけ進めているのでしょうか。この大いなる矛盾に早く気付くべきだと思います。