いまから70年前のきょう、1947(昭和22)年10月13日、新憲法下の皇室典範第5章に従い、初の皇室会議(議長は片山哲首相=当時)が開かれた。この会議で、皇族のうち、天皇と直接の血縁関係にある直宮(じきみや)を除く11宮家51人の皇籍離脱が決定。翌日には51人の皇族が一般市民となった。

このときの決定により、皇室に残されたのは昭和天皇家と弟の秩父、高松、三笠の3宮家のみ。宮家を離れた人々は同年10月18日、東京・赤坂離宮でのお別れ夕食会に出席した ©共同通信社

 皇籍を離脱した11宮家は、伏見宮・東伏見宮・山階宮・久邇宮・北白川宮・閑院宮・賀陽宮・東久邇宮・梨本宮・朝香宮・竹田宮家。このころ占領政策を推し進めていた連合国総司令部(GHQ)は、すでに敗戦直後より皇室財産への課税を命じていた。各宮家では財産総額の大半が課税対象とされたため、不動産などの多くを手放さざるをえなかった。梨本宮家は伊豆山の別邸を、「乗っ取り屋」と呼ばれた実業家の横井英樹に売却、これについて梨本宮守正王妃の伊都子は、「あんな三四歳の青二才、しかしこっちも税金がたすかるから……」と1946年11月25日付の日記につづっている(『昭和 二万日の全記録 第8巻』講談社)。

 戦後まもなく憲政史上唯一の皇族首相となった東久邇宮稔彦王も、皇籍離脱後は自活する必要から、新宿のマーケットに乾物店と美術骨董店を出し、米菓子の製造機販売にも手を出したが、いずれもうまくいかなかった。このほか、皇籍離脱にあたり各人に支給された一時金を狙う者もおり、事業を持ちかけられ、食い荒らされる旧皇族も少なくなかったという(本田靖春『現代家系論』文春学藝ライブラリー)。

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 このように旧皇族の多くが社会に適応するべく四苦八苦するなか、スポーツ振興に取り組んだ竹田恒徳(つねよし)は出色の存在であった。竹田は、日本体育協会会長代理、日本オリンピック委員会(JOC)委員長として東京オリンピック(1964年)の招致に尽力し、また札幌冬季オリンピック(1972年)でも組織委員会副会長として、その成功に大きく貢献。このほかにも、日本馬術連盟会長、日本スケート連盟会長、国際オリンピック委員会(IOC)委員など数々の要職を歴任した。現在のJOC会長・竹田恆和は恒徳の三男で、宮家の皇籍離脱の翌月に生まれている。