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“難攻不落の名城”ゆえに…熊本城の復旧にまだ17年も必要なワケ《加藤清正vs最新技術》

復興のシンボル・熊本城の今 #1

2021/04/17
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 飯田丸五階櫓が建つ石垣は、熊本地震の前震で南側が崩落。本震では東側も崩れた。東南の石垣が全て崩れていたら、櫓も転落してしまっただろう。しかし、角の石組が一列だけ残り、壁がひび割れて床がしなる櫓を支えた。その必死で耐える姿を自らに投影する被災者が多かった。

 だが、余震や強風でいつ崩落するか分からない。

高さ14メートルの「鉄の腕」で櫓を支える

 そこで、早急に解体保存することにしたが、櫓や残された石垣がいつ落ちてくるか分からないので人が近づけなかった。危なくて工事に着手できないのだ。市役所では方法が見つからず、城の復元工事に携わってきた業者に投げ掛けると、下から支えるのではなく、櫓の後ろから屋根越しに腕を伸ばすようにして抱え込み、床下に手を入れるかのごとく支えを入れたらどうかという案が出た。そこで、鉄骨で高さ14メートル・長さ32メートル・幅5.5メートルの巨大な構造物を造った。総重量は470トン。関係者の間では「鉄の腕」と呼ばれた。

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 鉄の腕で櫓が落ちないように支えると、遠隔操作の無人重機で地面に散乱した石を取り除いた。そして石垣の下から鉄骨を組み、高さが21メートルもある巨大なステージ状の「構台」を造った。構台にはいくつもの役割があった。石垣が崩落しないように押さえる。櫓解体のための足場の基礎になる。真横に堀があるような場所なので、ステージ上は作業スペースにもなった。

鉄の腕 ©時事通信社

 高さ21メートルというと、5~6階建てのビルに匹敵する高さだ。しかし、石垣は高さが21メートルもあるので、どうしてもこの高さに合わせる必要があった。

 これほど高い石垣が造られたのは城を守るためだ。その上に外観は3層・内部は5階建ての櫓が造られ、下から見ると天を仰ぐようだったろう。難攻不落の城ならではの構造だ。

城を残すために、後世に残らない構造物を造る

 しかし、せっかく苦労して造築した鉄の腕や巨大構台も、櫓の解体が終わるまでに解体した。次の石垣の解体に邪魔になるからだ。

 現在、飯田丸五階櫓があった場所では、石垣まで取り払われて保存されている。今後は石垣を積み上げ、その上に櫓を再建する工事が行われる。

 これから進められる復旧工事でも、知恵や工夫を凝らした巨大な鉄骨構造物が造っては壊されるのだろう。さすがに鉄の腕は「一本石垣」があった飯田丸五階櫓だけに必要な工法だったが、巨大な構台は他の櫓の解体修理などでも状況に応じて使われるからだ。城を残すために、後世に残らない構造物を造る。手間がかかるだけでなく、経費もかかる。

崩落しないよう鉄の網がかぶせられた宇土櫓の石垣

 注目された天守閣の修復でも特殊なやり方が行われた。

 熊本城の天守閣は、西南戦争の開戦直前に焼失し、1960年の熊本国体開催に際して再建された。熊本城の復元建造物が木造になるのは1981年からなので、鉄筋鉄骨コンクリートなどで造られた。櫓としては、大天守(地上6階・地下1階)と小天守(地上4階・地下1階)で構成されている。