約8200平米の石垣が崩落
熊本地震の揺れには特徴がある。短時間の間に激しい余震が何度も何度も襲ったのだ。
「収まったと思ったら、また激しく揺れる。1時間以上続いたような気がします」。多くの人が本震のあとの揺れをそう語る。こうした断続的な強い揺れに、伝統的な建築物は弱かった。
熊本城では、東十八間櫓と同じ頃に創建されたとみられる建造物など13棟が国の重要文化財に指定されていた。復元された建物も20棟あった。これら全てが被災してしまったのだ。特に東十八間櫓など2棟の国指定重要文化財と、5棟の復元建造物は倒壊してしまった。
石垣の損壊も、目を覆わんばかりだった。全体の1割に当たる約8200平米が崩落したほか、膨らみや緩みを含めると全体の3割が被災した。
地盤は70カ所で陥没や地割れが起きた。
「前震の段階では、まだ修復可能かと思っていましたが、とどめを刺されたかのように感じました」。古賀さんは振り返る。
攻めにくい城は、工事もしにくい
それでも熊本市は修復すると決めた。18年3月に策定した復旧計画によると20年もかかる。
「全国的には石垣しか残されていない城が多い中で、熊本城には復元も含めて多くの建造物が残っています。これらが一度に被災しました。通常、重要文化財や歴史的建造物の大規模修理は20~30年周期。解体修理となると100~200年に1度という話を聞きます。こうした工事以上に難しい修復を、全ての被災建物で一気に行わなければなりません」。復旧工事が長くなる理由を古賀さんが説明する。
どのような建築物も、修復より新築の方が簡単にできる。例えば、国の重要文化財の長塀は、決して平坦な石垣の上に建てられていたわけではない。242メートルの延長も真っ直ぐではなく、少しずつ曲がるなどしていた。このため現場では柱の1本1本に神経を使って修復する作業が続いた。
しかも、難攻不落といわれた城だけに、堀が張り巡らされて、石垣は高い。攻めにくい城は、工事もしにくいのだ。被災の特殊さもあり、どのような手法で解体や復旧工事を行うかは、城との知恵比べのような一面もある。
その象徴的な現場があった。緊急工事で解体保存した飯田丸五階櫓(いいだまるごかいやぐら)と石垣だ。被災後、「奇跡の一本石垣」として有名になった場所である。
この櫓は2005年の復元建造物だ。明治初期に陸軍が撤去し、1877(明治10)年の西南戦争で砲台として使われた。西南戦争では、西郷隆盛の率いる旧薩摩藩士軍が政府軍と戦った。だが、西郷隆盛は政府軍が籠もる熊本城を攻めあぐね、「官軍に負けたのではない、清正公に負けたのだ」と述べたと伝えられている。それだけの構造を持つ城だった。