勝ち進むごとに職場の上司に電話しなければならなくて
――ウルトラクイズとの出会いはどんなものなのですか?
能勢 小学5年生のときにたまたまテレビで発見したのが『ウルトラクイズ』でして、自分には全然わからないクイズに答えている大人たちのカッコよさと、大アメリカを渡っていくスケールの大きさに惹かれてクイズの道にはまったわけです。そこから私の目標は「ウルトラクイズ優勝」。18歳以上じゃないと出場できないので、大学に入ったら絶対にクイズ研究会に入って、ニューヨークを目指すぞと心に決めていました。
――ところが、大学時代は予選落ちばかりして、アメリカどころか成田にさえ行けなかったんですよね?
能勢 はい……。予選は東京ドームで行われる〇×クイズなんですが、クイズ研みんなで傾向と対策をして臨んで、会場では全員で固まって動くんです。ところがメンバーの記憶違いで全員で〇に行ったら全滅っていうことが続きまして(笑)。あれだけの大会場で、日本中から2万人以上の人が集まっているわけですから、興奮状態というか、正常な考えができないんですよ。そこから集団で固まりつつみんなが無言で動くと心得て、大学卒業後の22歳、社会人1年目にしてやっと初めて予選突破です。ちょうど司会者が福留功男さんから福澤朗さんに代わったときですね。
――この年に一気に優勝するのですよね?
能勢 そうですね。ただ、成田空港から出国するにはクイズではなく、じゃんけん勝負なんですよ。このために、過去のウルトラクイズでのじゃんけんをビデオで観返して、統計をとって傾向を調べておきました。それが功を奏したか、ここもクリアできました。
――結局、ウルトラクイズは決勝戦まで勝ち進むと、どれくらいの日数の旅行になるんですか?
能勢 収録は9月なんですけど、丸1カ月かかりましたね。
――就職1年目に丸ひと月の休暇をとるのにはかなり勇気がいりますね。
能勢 勝ち進むごとに心苦しいんですよ。その都度「すみません、ドミニカ共和国に進むことになりまして」とか、上司に国際電話しなければならなくて。しかも、職場の迷惑にならないように日本時間の昼休みになる時間を計算して電話。……いやあ、ウルトラクイズの話をするたびに、この苦い思い出を語らねばならないのが、私にとって26年続く罰ゲームとなってますね。
民放3大クイズ番組の「傾向と対策」とは?
――能勢さんがクイズ王となられた1990年代はまさにクイズ王ブームでしたね。
能勢 日本テレビの『ウルトラクイズ』、フジテレビの『FNS1億2000万人のクイズ王決定戦!』、そしてTBSの『史上最強のクイズ王決定戦』という3大クイズ王番組がありました。
――各番組、どんな印象をお持ちでしたか。
能勢 『ウルトラクイズ』は最初の〇×とじゃんけんで勝ち残れればラッキーという宝くじ的感覚でロマンと夢がありました。『史上最強』は王道。非常に難しい問題もありますし、クイズ番組の歴史の中で脈々と出されてきた問題を凝縮したような問題も出されるので格式がありました。自分の中では優勝できれば一番の名誉になったと思います。『FNS』はクイズの既成概念を破るような突飛な問題がよく出ましたね。そこが面白さでもありましたが、逆に対策は大変でした。
――突飛な問題といいますと?
能勢 たとえば、当時はきんさんぎんさんが大ブームだったじゃないですか。で、問題「きんさんの喉に刺さった魚の骨、魚の名前は?」答え「イサキ」みたいな(笑)。あと、当時「画王」という大画面テレビが発売されていたんですけど、「このテレビCMの曲のタイトルは?」正解は「画王の国からポイポイポイ」でした、とか。なんじゃそりゃって感じですよ。こんな問題ばっかりですから、誰が勝ち残るかわからない。
――クイズ王時代の忙しさはどんな感じだったんですか?
能勢 半年に1回、『史上最強』と『FNS』の予選があって、他にもいろんなクイズ番組がありましたからね。予選に落ちるのはさすがに恥ずかしいので、毎日毎日の新聞からクイズに出そうなものを常にチェックして、仲間と問題交換し合って覚えて挑んでいました。それを2、3年繰り返していたので、ちょっとしんどかった時代。もちろん、公務員の仕事もしながらですから、どのテレビ局もクイズ番組をやる時代が過ぎて、ちょっとホッとしたようなところもありました。