終戦前日の1945年8月14日。満洲に侵攻したソ連軍に、徒歩で避難中だった日本人が襲われ、戦車に下敷きにされるなどして1000人もの民間人が殺される事件が起きた。なぜ悲劇は起きてしまったのか。昭和史を長年取材するルポライター・早坂隆氏が寄稿した。(全2回の1回目/#2を読む)

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被害者となったのは「平穏に生活していた民間人」だった

 昭和20(1945)年8月8日、ソ連は日ソ中立条約を一方的に破棄するかたちで日本に宣戦布告。翌9日未明、満洲国への侵攻を開始した。

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 以降、満洲国では実に多くの虐殺事件が発生している。その中でも最も規模が大きかったのが「葛根廟事件」である。

 今ではその名前さえ知らない人が大半であろうが、決して忘れてはいけない重要な史実である。

対日宣戦布告後、ソ連沿海地方のグロデコボ付近から満州に進攻するソ連部隊(タス=共同) ©️共同通信社

 葛根廟事件の被害者となったのは、満洲国興安総省の省都である興安街(烏蘭浩特)の住民であった。現在では中国の内モンゴル自治区となっている地域である。

 戦前戦中、興安街とその近辺には、日本からの開拓移民が多く暮らしていた。土地の買収などを巡って問題が起こることもあったが、移民一人ひとりは現地の人々と交流を持ちながら平穏に生活している人たちがほとんどであった。街には神社(興安神社)や国民学校(興安在満国民学校)などがあった。

 戦時中も大きな戦闘はなく、住民は静かな日々を送っていた。

現地召集によって、住民の大半は「女性・子ども・老人」に

 興安街には3000人ほどの邦人が暮らしていたとされる。一時は4000人ほどまで増えた時期もあったが、戦争が長期化すると成人男性の現地召集によってその数は減少した。「根こそぎ動員」により、住民の大半は女性や子ども、老人となっていた。

 こうして迎えた昭和20年8月9日、ソ連軍は国境を越えて、満洲国に侵攻。スターリンは当初、11日の侵攻を命じていたが、6日にアメリカが広島に原子爆弾を投下したことを受け、予定を早めた。

 一方、満洲国を防御するはずの関東軍は、その主力をすでに南方戦線に移しており、戦力は著しく低下していた。これは日ソ中立条約を過信した結果である。或いは関東軍の減少による抑止力の低下が、ソ連軍の一方的な侵攻を招いたとも言える。

 それでも国境付近では、爆雷を抱えた兵士が敵戦車に飛び込むなど、果敢な肉弾戦を繰り広げた守備隊もあった。しかしその一方で、早々に後退した部隊も多く、このことは「関東軍は民間人を見捨てて逃げた」との声を在留邦人の間に生む契機となってしまった。