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「上陸しても次々と人が死ぬ飢餓地獄」尖閣に漂着後の“無人島生活”を生き延びた日本人の証言

尖閣諸島戦時遭難事件#2

2021/04/04

 漂流者たちの身体はみるみる衰弱し、重度の栄養失調に陥る者が続出。餓死者が相次いだ――。終戦直前、多くの日本の民間人を乗せた疎開船が遭難し、無人島だった尖閣諸島に流れ着いた。しかし、そこから120人を超える遭難者集団による、過酷な飢えの日々が始まった。

 尖閣諸島で起きた秘史について、昭和史を長年取材するルポライター・早坂隆氏が寄稿した。(全2回の2回め/#1を読む)

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いきなり始まった「無人島生活」

 尖閣諸島の沖合で米軍機の襲撃に遭った疎開民たちは、傷ついた船で尖閣諸島の魚釣島を目指した。

 石垣島の北西約170キロの位置にある尖閣諸島は、魚釣島や北小島、南小島、久場島、大正島などから構成される。

 3・8平方キロメートルほどの面積を持つ魚釣島は、その中で最大の島である。明治時代には筑後国上妻郡(現・福岡県八女市)出身の実業家である古賀辰四郎が、島内に鰹節工場を建設。船着場も設けられた。最盛期には250名ほどが暮らしていたとされる。しかし、昭和15(1940)年に事業は停止。人々は島を去った。

尖閣諸島・魚釣島の岩だらけの海岸(1979年) ©️共同通信社

島に閉じ込められ、負傷した腕からはウジが…

 それから5年後、疎開船を攻撃された漂流者たちが、無人島となっていたこの島に上陸を果たしたのである。昭和20(1945)年7月4日のことであった。

 この時に上陸した人の数は正確には不明であるが、120名以上はいたという証言が多い。

 漁師の証言通り、島内には確かに天然の湧き水があった。漂流者たちはこの湧き水によって、ようやく喉の渇きを癒すことができた。

 その後、石垣島に救助を求めに行くために、一部の者たちが友福丸に戻った。だが、直したばかりの機関が再び故障。計画は断念せざるを得なくなってしまった。友福丸はやむなく海上に放棄された。

 こうして漂流者たちは、魚釣島に閉じ込められるかたちとなった。この島で救助が来るのを待つことになったのである。

 しかし、彼らを取り巻く状況は極めて悪かった。米軍機の攻撃時に重傷を負った者も多く、傷跡にはすぐにウジが湧いた。遭難者の一人である石垣ミチはこんな話を伝える。

〈朝鮮の女の方で腕をやられ、わずか皮だけで腕がぶらさがり、その腕から湯呑み茶わんいっぱいくらいのウジがでてきました。この方は泣きながら、ぶらさがっている腕を切ってくれと嘆願して、どうにもならないのでカミソリで切ってやりました〉(『沖縄県史 第10巻』)