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「上陸しても次々と人が死ぬ飢餓地獄」尖閣に漂着後の“無人島生活”を生き延びた日本人の証言

尖閣諸島戦時遭難事件#2

2021/04/04
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小さな帆船を製作し、決死の脱出計画

 島には時折、米軍からの空襲もあった。漂流者たちを巡る状況は悪化するばかりであった。

 絶望的な日々が続く中、状況を打破するための一つの試みが始まった。8月上旬、一部の漂流者たちが「サバニ」と呼ばれる小さな帆船の製作を始めたのである。サバニは南西諸島で古くから漁のために使われてきた小舟だが、漂流者の中に船大工がいたのだった。

 流れの速い黒潮に囲まれた魚釣島には、岸に何隻かの難破船の残骸があった。それらの難破船の木材や釘が、サバニの貴重な材料となった。

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 釘は錆びついていたものを伸ばして使った。婦人たちは衣服などを縫い合わせて、船の帆をつくった。

 こうして全長5メートル、幅2メートルほどのサバニがついに完成した。

 敵機からの機銃攻撃によって船体に穴が開いた場合のことを考えて、様々な大きさの木の栓も用意した。止水用の栓である。

尖閣諸島・魚釣島で昭和15年まで住民が活用していた水路。左奥の岩に灯台がある(海上自衛隊対潜哨戒機から、2010年撮影) ©️時事通信社

石垣島に向かう9名の「決死隊」を結成

 こうしてこの船を使って石垣島まで連絡を取りに行く「決死隊」が結成された。選ばれたメンバーは、一心丸の機関長だった金城珍吉をはじめとする9名の男たちである。

 決死隊が魚釣島を出たのは、8月12日の夕方であった。9名は島に残る者たちが歌う「かりゆし」の歌声と共に送り出された。

 十分な材料もない中で急造したサバニでの航海は、まさに死を覚悟したものだった。決死隊の面々は出発前、自身の頭髪や爪を切り、島に残る者たちに預けていた。もしもの時の「かたみ」であった。

 サバニはやがて島の沖合に出たが、風も順風とは言えなかった。6名が漕ぎ手となって、懸命に櫂を漕ぎ続けた。

 翌13日は、不運にもほとんど無風となった。さらに途中、3回ほど米軍機が上空に現れた。しかし、そんな危機にも「決死隊」は冷静であった。彼らはサバニをわざと転覆させて舟の下の海中に身を隠し、無人の転覆船を装ってやり過ごしたのである。

 14日、ついにサバニは石垣島に到着。駐屯する日本軍の守備隊に遭難の情報を伝え、救助を求めることができた。