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次々と人が死んでいく「飢餓地獄」

 漂流者たちは島内に群生するクバ(ビロウ)などを重ねて屋根代わりにし、その下で暮らした。

 漂流者たちの主食となったのも、このクバの茎や若葉であった。当初は船内にあった米や味噌、各自の携行食などを集め、共同で炊事をして分け合いながら食べていた。しかし、少ない具の量を巡って、諍いが起きることもあった。その後、それらの食糧が尽きると、各自で食べ物を調達するようになったのである。

 漂流者たちはクバの茎をそのまま生で食べたり、水煮にしたりした。その他、サフナ(長命草)やミズナ(ニンブトゥカー)なども口にしてなんとか飢えを凌いだ。漁のできる技術や体力のある者は魚や貝、海藻などを採集した。ヤドカリやトカゲを捕まえて食べる者もいた。岩の窪みに溜まったわずかな塩を集めて舐めた。

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 それでも食糧はまったく足りなかった。一部には、食糧を独り占めしようとしたり、他人の分を盗み取ろうとする者も出た。5人の子どもを連れた母親だった花木芳は、島での体験をこう記す。

〈そのうちに食べものも無くなり、栄養失調になって動けなくなってからは、顔も体もよごれ放題、青ぶくれしてお腹も腫れて、このまま死んで行くのではないかと思っていた。

 島で一番初めに亡くなったのは、離れに住んでいたンミ(婆さん)だった。くばの葉の下に、手を組んで膝を抱いて座るようにしていらっしゃるので、「ご飯ですよう」と声をかけても聞きなさらないから、「婆ちゃんを呼んでおいで」と子どもをよこしたら、「あのばあさん、死んでいるよ」と子どもにいわれて初めて知った〉(『市民の戦時・戦後体験記録 第二集』)

尖閣諸島 ©️文藝春秋

毒のある豆を食べて中毒死する人も…

 毒のある豆を食べた者が中毒死する事件も起きた。当時、10歳だった石垣正子は、次のように回顧している。

〈ある日、キヌ姉が山の向こう側の浜に豆が生えていると言うので、二人で豆を取りに行きました。それは丸っこい葉で蔓がそこらいっぱいにのびて、空豆に似た豆がいっぱい生えていました。その豆を煮て食べたら吐いたり下したりで、キヌ姉は祖母にさんざん叱られ、キヌ姉はどうしてこんなになるまで食べるのと私を怒り、大変な事になりました。この毒豆で死んだ幼子もありました〉(『沈黙の叫び』)

 このような毒豆を食わずとも、重い下痢に悩まされる者が多かった。こうして漂流者たちの身体は、みるみる衰弱していった。重度の栄養失調に陥る者が続出し、餓死者が相次いだ。当時、17歳だった屋部兼久は次のように証言する。

〈上陸してからも毎日毎日、人が死んで行きました。弱った老人がたおれ、負傷した人、子供の順で死んで行くのです。埋葬しようにも硬い岩根の島で、穴が掘れないのです。離れた所に石をつみ上げてとむらいました〉(『沖縄県史 第10巻』)