魚釣島から見えた「日の丸」
だが翌15日、大東亜戦争は終結。日本は敗戦国となった。
無論、魚釣島に残っている者たちは、玉音放送のことなどつゆ知らず、助けが来るのをひたすら待っていた。
魚釣島の上空に日本軍の機体が姿を現したのは、16日のことである。最初、機影を発見した漂流者たちは、
(また敵機か)
と思い、岩陰に身を隠した。しかし、機体に「日の丸」が見えると、一斉に歓喜の声をあげた。漂流者たちは涙を流して喜び合い、機体に向けて懸命に手を振った。島の上空を旋回した機体は、落下傘に吊るした筒を落として飛び去っていった。筒の中には、乾パンや金平糖などの食糧が入っていた。魚釣島には航空機が着陸できるような場所がないため、救助は艦船で行うことになったが、まずは食糧の投下を実行したのである。
食糧を得た漂流者たちは、
(もう大丈夫)
と心から安堵した。
しかし、中には身体が衰弱し切っていて、もはや手遅れの者もいた。分けてもらったばかりの金平糖を握りしめながら息絶えた者もいたという。
それから2日後の18日の早朝、生存者たちは島に近づいてくる3隻の救助船を発見した。生存者たちはクバの葉を燃やした煙で合図を送った。
こうして漂流者たちは救出された。
生存者たちは次々と救助船に収容されたが、島で亡くなった者たちの遺骨を持ち帰ることはできなかった。
帰還後にも起きた悲劇
救助船は8月19日に石垣島の港に帰港。桟橋には出迎えの人たちが多く集まっていた。台湾に向けて石垣島を出発した日から、すでに約50日が過ぎていた。
そしてこの時、彼らはようやく日本の敗戦について知ったのである。
魚釣島から生還することができたにもかかわらず、その後に栄養失調などの影響で命を落とした子どもたちもいた。宮良廉良とその妻である幸子の間には二男五女があったが、魚釣島から石垣島に戻って1週間後、五女で3歳の洋子が絶命した。洋子は床に就いてはいたが、前日まで時おり笑顔さえ浮かべていた。父はそんな洋子を見て、
「子どもたちが元気になった」
とおどけて踊ってみせていたという。
さらに翌月には、次男で1歳の邦雄も旅立った。
束の間の幸福な時間は、脆くも瓦解した。
この一連の遭難事件の犠牲者数には諸説ある。米軍の銃撃から魚釣島で死亡した方々すべてを含めると、延べ100名前後の方々が命を落としたのではないかとされている。
終戦翌年の昭和21(1946)年、遺族らによる魚釣島への遺骨収集が行われた。昭和44(1969)年には、当時の石垣市長らが魚釣島に上陸。「台湾疎開石垣町民遭難者慰霊碑」が建立され、慰霊祭が執り行われた。
しかし以降、魚釣島での慰霊祭は、一度も実行されていない。
遺骨収集も進む気配がない。多くの遺骨はいまだ島内に取り残されたままである。(文中敬称略)