1ページ目から読む
2/3ページ目

まずは、ソ連軍機の空襲が始まった

 それまで平穏だった興安街の状況が一変したのは、10日の午前中のことである。十数機ものソ連軍機が興安街の上空に侵入し、爆撃や機銃掃射を始めたのだった。住民は数日前につくったばかりの防空壕などに退避したが、逃げ遅れた人々も多かった。市街地の建物は、軒並み大きく破壊された。

 空襲は日付が変わっても断続的に行われた。

 そんな中、住民たちは街から退避することを決めた。居住地域によって東と西という2つのグループに分かれ、興安街から音徳爾(オンドル)という町を目指して徒歩で避難することになったのである。音徳爾まではおよそ100キロの距離であった。

ADVERTISEMENT

 西グループは11日の午前中に興安街を発った。しかし、東グループは集合に手間取り、出発が夜になってしまった。東グループはおよそ千数百人の集団だった。

 たくさんの荷物を背負った女性や子どもたちが、暗い夜道を歩き始めた。食糧や水の他、着替えや紙幣などを持っての逃避行である。

 中には荷車を使う者たちもいた。その他、幼児や病人を乗せるための馬車が、1台だけ用意された。

 関東軍の姿はすでになく、避難民たちは軍の庇護を受けることができなかった。

(写真はイメージ)©️iStocck.com

女性や子どもの疲弊や治安状況から葛根廟を目指すことに

 その夜、東グループは興安街から東方へ4キロほど行ったウラハタという町に入り、学校や防空壕などで一夜を過ごした。炊き出しも行われたという。

 東グループは住んでいた地区などによって、さらに7つの中隊に分かれた。選ばれた中隊長の指示のもと、より円滑に退避行動が進むよう、体制を整備したのである。

 小銃や手榴弾などを持ったわずかな男性たちが、各中隊の護衛にあたった。グループ全体を率いるのは、興安総省で参事官を務めていた浅野良三である。

 行き先は音徳爾から葛根廟に変更となった。女性や子どもの疲弊や周囲の治安状況などを考慮し、まずは50キロほど先の葛根廟を目指し、そこから鉄道を利用する計画に変更したのである。葛根廟には白阿線という路線の駅があった。

 こうして翌12日から、再び退避の旅が始まった。

 昼間は8月の強烈な陽光に苦しめられた。やがて人によって歩く速度にかなりの差が見られるようになり、列は徐々に長く伸びていった。

 道には衣服やカバンが落ちていた。前を行く人が、荷物を減らすために捨てたものであった。

 13日の夕方には、大雨が降った。