ソ連軍に包囲され、自決する人々も
その後、戦車群はようやく葛根廟から去った。生存者の一人である小池うめは、その後に見た光景を以下のように述べている。
〈足元を見ないと、たくさんの死体で、何回も躓いてころびそうになった。
転がっている人が手を上げていたので立ち止まってのぞくと、虚空の一点にカアーッと目を据えたままもう硬直した手だった。二十歳前後の若い女だった。その女の足もとに一緒に歩いていたのか十歳ぐらいの女の子の女の人と握っていた手が、はずれて可哀想に首から上は戦車に轢かれたのか完全に押しつぶされ半分土の中にめり込んでいた〉(『殺戮の草原』)
生存者の中からは、ついに自決者が出始めた。ソ連軍に包囲されていると思われる状況下、重傷を負ってこれ以上の退避を諦める人や、ソ連兵からの陵辱を拒む女性、子どもを失って絶望に打ちひしがれた母親などである。
(子どもと同じ場所で一緒に死のう)
と考えた母親たちは、無念の思いと共に次々と自ら命を絶った。自決の方法は、刃物か銃による事例が多かったという。
その他、青酸カリで命を絶つ者もいた。「もしもの時のため」と青酸カリを持参していた者たちもいたのである。
子どもに青酸カリを飲ませて……
自らの愛する子どもたちと心中を図る母親もいた。当時、28歳の広久政子は、2歳の長女・節子と8カ月の長男・克彦を連れていた。政子は戦後に綴った手記の中でこう告白している。
〈……私は決行した。腰のハンカチで坊やの細い首をぎゅっと絞めたのだ。『坊や、許して、我慢してね。母ちゃんもすぐ後から行くの。坊やばかりやるんじゃないから、苦しいけど我慢してね。御免なさい。御免なさい』。ちょっと力が抜けると、吹き返してくる息。長く苦しませたくないばっかりに、一生懸命に引いた。がっくりと首がくびれて、あゝ、遂に私の坊やは死んでしまった。八月十四日。克彦は僅か八か月の命を母の手に奪い去られたのだ。亡骸はどうすることもできないので、草の上におむつを敷いて寝かした。顔をガーゼで掩ってやった〉(『亡き子がわたしを呼ぶ』)
政子は次に長女の節子に青酸カリを飲ませた。そして、自分もすぐ後に続いた。
しかし、致死量に足りなかったのか、2人は死ぬことができなかった。