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深刻な飢えと渇き……ソ連兵を避け、草原や畑を歩いた

 葛根廟駅の付近にはソ連兵や暴民が多く、近づくことすらできなかった。避難民たちはいくつかの集団となって、満洲国の首都である新京まで歩くことにした。

 彼らは深刻な飢えと渇きに襲われた。ソ連軍兵士や暴民に見つからないよう、草原や畑の中を歩いた。

 そんな中、人のいない農家を見つけて、そこに隠されていた粟で命を繋いだ者たちもいた。彼らは粟を炊いておにぎりをつくり、皆で分け合って貪り食った。しかし、その中の一人であった大櫛戊辰によれば、次のような哀しき光景も見られたという。

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〈「お母ちゃん、僕のごはんを取るなよ!」

 

 早く喰べ終った母親が、まだ我が子の手にある飯を取ろうとしていた。

 

「嫌だ! 嫌だ! 僕のだ!」

 

 背をかがめ握り飯を胸に抱き、頭を埋めて必死になって防いでいる。その光景は、浅ましいとか物の哀れとかいうよりも、鬼気迫る餓鬼道の世界だった。愛とか美とか、糞くらえだ。何が母性愛か何が仁道だ!〉(『殺戮の草原』)

疲労困憊の末にたどり着いた地は……

 8月といえども、夜になると身体が震えるほど気温が下がった。おぶっていた赤ん坊がいつの間にか死んでいたり、歩くことを諦めてその場に伏せる者もいた。

 子どもたちに対し、

「頑張って歩こうね」

「もうすぐだから元気だして」

 などと励ましの声をかける大人もいれば、何も言わない人もいたし、

「泣くな。うるさい! 誰かに見つかったらどうするんだ!」

 と怒りをぶつける者もいたという。

 地図も方位磁石もない逃避行、目印の少ない大地では迷うことも多かった。疲労困憊の果てにたどり着いた場所が、数日前に自分たちがいた所だとわかった時の絶望は計り知れなかった。

 ソ連兵や暴民に見つかった若い女性が、強姦される事件も複数起きた。

(写真はイメージ)©️iStock.com

日本人に同情し、手を差し伸べた現地住民たち

 その一方、日本人に同情し、食事を分け与えてくれる現地の人々もいた。避難民たちはそんな時に「日本が戦争に負けた」という事実を知った。自分たちが虐殺にあった日の翌日に戦争が終わったことを知り、避難民たちは愕然とし、脱力した。

 結局、千数百人いた避難民の内、生きて日本に帰国できたのはわずか百余名であった。現地に取り残された子どもたちは残留孤児となり、それぞれ激動の戦後を過ごすこととなった。(文中敬称略)

〈参考文献〉
『葛根廟(新聞記者が語りつぐ戦争(5))』読売新聞大阪本社社会部
『葛根廟事件の証言』興安街命日会
『殺戮の草原―満州・葛根廟事件の証言』東葛商工新聞社