「『松井秀喜』をテーマに1本書いていただけませんか?」

 5月下旬、そんなリクエストがLINEにて届いた。『文春野球』の巨人監督を務める菊地選手からだった。

「松井秀喜って、あのゴジラ松井ですよね……?」

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「そうです」

「松井本人に直接取材したことはないけど、それでもいい?」

「大丈夫です。ぜひお願いします!」

©文藝春秋

19歳の“ゴジラ”を見られない――。非情な辞令

 松井秀喜の記憶に思いを巡らす。ふと気づけば脳内は松井のルーキーイヤーである1993年にタイムトリップしていた。当時、私は大阪の商社に勤務する入社4年目の会社員だった。

 ゴールデンルーキー・松井はオープン戦からプロの1軍レベルのボールに苦しみ続け、夏場まではファームが主戦場だった。ところがトップをしっかりと作るフォーム改良を経て、8月に2度目の1軍昇格を果たすと覚醒モードに突入。8月31日からの6試合で5本塁打を放ち、スポーツ新聞の1面には松井の名が連日躍った。19歳のスラッガーの成長と躍進は93年秋を生きる活力となっていた。

(やっぱりモノが違う! 同じ時代に生きてリアルタイムで目撃できることに感謝しなきゃいけないレベルの選手だ! おれは松井が引退するその日まで絶対に目を離さないぞ!) 

 松井がプロ通算7号を東京ドームのライトスタンドに叩き込んだ翌日、私は部長に呼ばれ、こう伝えられた。

「10月から〇〇と交代でフランスのパリ事務所に駐在してくれるか」

 一瞬、息が止まった気がした。

(海外勤務になったら、松井の一挙手一投足をリアルタイムで追えなくなる……)

「部長、駐在期間は……?」

「最低1年。長くて3年かな」

 立ち眩みに襲われた。しかし辞令は絶対だ。

 翌月、松井秀喜の度肝を抜くような特大のプロ通算11号をナゴヤ球場の三塁側スタンドで目撃した3日後、私は機上の人となった。

 フランスに降り立ち、日本のスポーツ新聞の国際衛星版を扱う代理店を真っ先に訪れた。国際衛星版は日本で売られている新聞の1~6面あたりまでの情報しかなく、全ページ白黒。それでいて値段は日本円換算で1部400円と安くはないが、1日遅れの日付の新聞がアパートの玄関ポストに届けられるシステムだと知り、迷わず申し込んだ。

 続いて『月刊ジャイアンツ』と『週刊ベースボール』の定期購読を申し込むべく、日本の書物を扱うパリ・ジュンク堂を訪れた。輸送賃が乗った分、定価の約3倍の値段シールが表紙に貼られていたが、申し込まないという選択肢はなかった。

 まだインターネットもメールもない時代。最低限の野球活字環境の整備は、野球命の自分にとって、ライフラインの確保とイコールだった。1日遅れで玄関ポストに届くペラペラの宅配スポーツ新聞は、隅から隅まで読んだ。日本から遠く離れていても、松井の動向は把握できていたつもりだった。