出生届を区役所で書いていたとき、病弱だった娘は急死
生き恥をさらす日々に、代々木忠は故郷を捨て、東京で興行の仕事をするつもりで上京した。
渋谷区松濤のコメディアンの家に転がり込んでいたとき、上の階で映画のロケがおこなわれた。
住人にピンク映画の業界人がいたのだった。
代々木忠は映像の世界に興味をもち、ピンク映画の助監督になった。
出演者の女優と結婚し、子どもも生まれ、敦子という名前をつけた。
やっと訪れた安らぎのはずだった。
出生届を区役所で書いていたとき、病弱だった娘は急死した。
我が身に降りかかる不幸を呪った。
数々の修羅場をくぐり抜けてきた代々木忠には、死地を乗り越えてきた男が放つ一種の義俠心と色気があり、女によくもてて、浮気が止まなかった。
制作した映画が猥褻だということで、日活ポルノ裁判の被告人になり、裁判費用で家計は逼迫していた。
被告の監督たちは、東大、早稲田といった高学歴者ばかりで、代々木忠はひとり疎外されたような気がした。
長期間の裁判闘争の末、無罪となったが、仕事では依然として部外者の気分を味わっていた。
映画の基礎的な勉強をしないで飛び込んだために、映像のカット割り、構成といったことが不得手だった。
「あんた映画のこと何にもわかっちゃいねえな」
1970年代初頭、映画各社はポルノ映画とアクション映画をミックスしたような女番長(スケバン)映画を大量制作した。
他の監督たちは、池玲子や杉本美樹といったグラマラスな映画女優を起用して女番長映画を撮ったが、切った張ったの世界で生きてきた代々木監督は、気心が通じ合うのか本物の女番長たちを映画に出演させ、セミドキュメントという手法で撮った。
繁華街を闊歩する十数名の女番長たち。
地面まですれるような長いスカートにちりちりのパーマ、腕にぶらさがるぺったんこの通学カバン。
代々木監督はカメラマンに指示を出した。
「あの眉毛の無い顔をアップで撮ってくれ」
カメラマンが呆れた顔で代々木監督に言った。
「忠さん。あんた映画のこと何にもわかっちゃいねえな。いきなりズームインして、眉毛の無い顔撮るだって? そういうのは映画じゃないの。あり得ない。状況説明から入らないと。まずは女番長たちが街中を歩くシーン。どんな街か描写して、その後、足下、カバン、それから眉毛。カット割りから勉強しなよ」
映画の世界では、カメラマンは監督と同等の権威があった。
代々木監督は、心の中で叫んだ。
おれは見たいものを撮りたいんだ。
ただそれだけなんだ。
同僚の監督たちが哄笑した。
「忠さんよお。そんなカット割りって無いんだよ」
でもおれは自分が見たいものが撮りたいんだ。カット割りもくそもあるか。