1980年初頭のセクシービデオ黎明期から、数々のヒット作・問題作を発表し続けてきた代々木忠監督。北九州で生まれた彼が業界の巨匠として君臨するまでの道程は、「波乱万丈」という言葉でも言い表せないほど、激しい変化に満ちたものだった……。
ここでは、山田孝之氏主演のNetflixドラマ『全裸監督』の原作者として知られる本橋信宏氏が数々のセクシービデオ関係者の実像に迫った著書『新・AV時代 全裸監督後の世界』(文春文庫)の一部を抜粋。不良たちを束ねる番長として少年時代を過ごし、若手華道家、ヤクザ組織のトップ、ピンク映画の助監督という異色のキャリアを経た代々木忠監督の半生を詳らかにする。(全2回の1回目/後編を読む)
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実母の死によってはじまった不遇
代々木忠の半生はけっして平坦な道ではなかった。
1938年、現在の福岡県北九州市小倉南区で生まれ育つ。
代々木忠の不遇は3歳のとき、実母の死からはじまった。
医者の誤診で盲腸をこじらせ手遅れとなって母は亡くなり、若い父と忠、1歳になる妹が残された。
製紙会社研究室に勤務していた父は、忠と妹を義理の姉夫婦にあずけ、博多の会社に転職した。
物心つくようになると、忠少年は親戚の家を転々とする。
小学校に上がるころに、父方の祖父母の家にやっと落ち着き、別れて暮らしていた妹も一緒に暮らすようになった。
祖父は大工の棟梁だったが、戦中戦後には仕事も無く家は貧しく、忠少年は鉄屑を拾ったり、靴磨きをしたりして、糊口をしのいだ。
父が再婚した。
腹違いの弟も生まれた。
義母ともぎこちないが安寧の日々が過ぎる。
ある日、忠少年が大事にしていた魚獲りの網を弟が破ってしまった。
忠少年が怒ると、義母がつい口から言ってはいけない言葉を漏らした。
「買って返せばいいんだろ」
中学高校と上がるにつれグレて、不良たちを束ねる番長となり、喧嘩は百戦百勝だった。
あまりにも荒くれとなったために地元にいられなくなって大阪へ逃亡し、先輩から説諭され花屋で働くことになった。
店主から華道を習うように命じられた代々木忠は、習ううちに面白くなり、2年で師範になった。
若手華道家としていくつも賞をとるまでになり、このままいけば小さな幸せが待っていたことだろう。