外様大名の一豊にとって、立派すぎる城づくりは命取り。当初、廻縁付きの天守は目立つため家老に反対されたものの、家康の許可を得て実現したといわれます。高欄は漆塗りで、格の高い擬宝珠がついた「擬宝珠高欄」。一豊の美意識とこだわりがうかがえます。
多雨地域ならではの工夫の数々
高知城があるのは、高知平野のほぼ中央に位置する標高約44メートルの大高坂山。高知平野は中世までほぼ内海で、水害が繰り返されてきた地域でした。現在も、高知県は年間降水量が全国でも1、2位を争う多雨地域です。築城当初、城山は南北の川に挟まれた立地から「河中山」とされましたが、城下がたびたび水害に悩まされたため、その名を忌み慶長15年(1610)に「高智山」と改められた歴史もあります。
そのため高知城では排水が工夫され、各曲輪からの排水が石垣に直接当たらないよう、石製の樋を通じて地面に落ちるように設計されています。どの城にも排水設備はありますが、高知城の石樋は大きく、数が膨大。地面に設けられた水受けの敷石も、瓦を敷いた他城の水受けなどと比較するとかなり大きく頑丈です。地盤が螺旋状になっており、城内に降った雨は三方に分かれて伏流しているそうです。
壁面に塗られた漆喰も、土佐漆喰と呼ばれる土佐独特の技術です。日本の城に用いられている一般的な「本漆喰」に対し、土佐漆喰は糊材を使用しないため雨に強いのが特徴のひとつ。黒鉄門前の塀裾をはじめ、建物の壁面や土塀に見られる「長押(なげし)型水切り」も、雨水が浸水しないようにするための工夫です。
こうした地域性が感じられるのも城のおもしろさ。土佐漆喰の壁や水切り瓦の屋根は近隣の家屋でも珍しくなく、本誌の取材で訪れた「南酒造場」の蔵も、壁は土佐漆喰で屋根は水切り瓦でした。地域の技術を駆使した、築城の背景が垣間見えます。