姫路城の天守を「優美」、松江城の天守を「豪壮」と表現するなら、高知城の天守には「躍動感」という言葉がぴったり。
まるで土佐の荒波のような、生き生きとした動きが感じられるフォルムです。土佐独自の「本木(ほんき)投げ」工法が用いられ、四方の軒隅が勢いよく反り返っています。
屋根の両端には独特な手法で鬼瓦がつけられ、たくさんの鬼瓦が屋根上を飾り、にぎにぎしさがあります。軒先が重なる部分は、端正で男らしい印象。一方で、唐破風のしなやかな曲線からは女性らしい繊細な美しさが感じられます。
高知城は天守の土台となる天守台がないのも特徴です。たいていの天守は天守台の上に建ちますが、高知城の天守は地形に沿ってうまく積まれた石垣の上に、直接天守を建てています。そのため、見上げたときに石垣のライン、天守屋根のライン、土塀のラインが絶妙に交差し、独特の造形美が生まれます。
関ヶ原の戦い後に山内一豊が築城
高知城は、関ヶ原の戦いの後に徳川家康から土佐一国を拝領した山内一豊により築かれた城です。かつて長宗我部氏が築いた大高坂山城があった地に、慶長6年(1601)から築城。完成は慶長16年(1611)とされますが、慶長8年(1603)8月には本丸と二の丸が竣工し、一豊が入城したとみられています。
天守は、四重六階の望楼型。享保12年(1727)の大火で焼失し、寛延2年(1749)に再建されました。築城時の初期天守の意匠に沿ったようで、古式の望楼型が採用されています。
天守最上階には廻縁(まわりえん/回廊)と高欄(こうらん/手すり)がめぐり、心地よい風を感じながら360度の絶景を楽しめます。廻縁は天守に必ずついているようなイメージがありますが、風雨にさらされると腐食するため木造建造物には不向き。装飾として取り付けられるケースも多く、実際に1周歩ける天守は希少です。