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 現在、確認される限り、うわなり打ちの最古の史料は、平安時代の中頃のものである。寛弘7年(1010)2月、摂関政治の全盛期を築いた藤原道長(966~1027)の侍女が、自分の夫の愛人の屋敷を30人ばかりの下女とともに破壊している(『権記』)。この侍女は、翌々年2月にも別の女の家を襲撃しており、そのときの事件は道長自身の日記にも、ちゃんと「宇波成打(うわなりうち)」と書かれている(『御堂関白記』)。うわなり打ちの習俗は、おおよそ11世紀初頭に成立したものだったようだ。では、なぜこの時期にうわなり打ちは生まれたのだろうか?

 女性史・家族史の研究成果によれば、この10~11世紀という時期は、ちょうど貴族層を中心に婚姻形態が確立してきて「一夫一妻制」が出来上がってくる時代とされている。俗に前近代の日本社会は「一夫多妻制」だといわれるが、厳密にいうと、それは正しくない。戦国時代や江戸時代の権力者が正妻以外の女性と関係をもつことを許されていたのは事実であるが、それは決して「妻」ではないのだ。あくまで正式の「妻」は1人であって、それ以外の女性は「妾(めかけ)」(側室・愛人)であり、非公式の存在であることに変わりはない。乱婚に近いようなルーズな婚姻形態から、建前上、しだいに一夫一妻制に変わっていったのが、平安時代中頃のことなのである。

 しかし、それは必ずしも女性の幸せにはつながらなかった。当時は「一夫一妻制」といいながら、実態は、男性にだけ不特定の女性との非公式な性交渉をもつことが許される「一夫一妻多妾(しょう)制」の社会だった。そのため、この時期、女性はそれ以前よりも、より過酷な状況に置かれることとなった。つまり、1人の男性と性愛関係をもつにしても、それが「妻」であるか、「妾」であるか、で雲泥の違いが生じる時代が到来したのである。当然、女性たちの間で、正式な「妻」の座をめぐる対立が表面化することになる。この時期の代表的な文学作品である『源氏物語』も『蜻蛉(かげろう)日記』もみな、男の愛を独占できない女たちの哀しみが主題の1つになっている。うわなり打ちで、女性たちの怒りが身勝手な男たちに向けられるのではなく、当面は正妻の座をめぐってライバルとなる同性へと向けられるようになったのも、同じ事情と考えるべきだろう。

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 うわなり打ちの習俗は、この時期に一夫一妻制(実態は一夫一妻多妾制)が成立したのと軌を一にした現象だったのである。だから、うわなり打ちは必ずしも当時の女性の「強さ」の表われではなく、むしろ大局的には「弱い立場」の表われと見るべきなのかも知れない。彼女たちの嫉妬や怒りの方向性は歴史的に形成されたものであって、同性に嫉妬するのが女性の脳の構造に由来するなどというエセ科学の説明は、まったくナンセンスな話なのである。

復讐から儀礼へ

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 うわなり打ちは、その後、江戸時代にも受け継がれていく。磐城平(いわきたいら)藩の内藤忠興(ただおき)(1592~1674)の正室天光院(てんこういん)には、みずから薙刀を取って忠興の妾を預かる家臣の家に押し入ったという武勇伝が伝わっているし(『土芥寇讎記(どかいこうしゅうき)』)、佐賀藩の鍋島直茂(なおしげ)(1538~1618)の前妻は離別後、後妻陽泰院(ようたいいん)の家にうわなり打ちを仕掛けるが、そのとき陽泰院は動じることなく前妻を丁重に出迎えて、かえって評価を高めたという逸話も伝わっている(『葉隠』聞書三)。うわなり打ちは健在である。

 ただ、享保年間(1716~36)に書かれた『八十翁疇昔話(はちじゅうおうむかしばなし)』という随筆には、「百二三十年以前」(16世紀末~17世紀初頭)のこととして、うわなり打ちの実態が次のように描かれている。それによれば、妻を離縁して5日ないし1ヶ月以内に夫が新しい妻を迎えた場合、さきに離別された妻は必ずうわなり打ちを実行したのだ、という。襲撃には男は加わらず、親類縁者の女など総勢20~100人(!)で新妻の家に押しかける。その際は、事前に使者を立てて襲撃を通告する決まりになっており、武器も刃物は使わず、手にするのは木刀や竹刀や棒に限られていた。破壊は台所を中心に鍋・釜・障子などに対して行われ、やがて一通りの破壊が終わると、仲介者が和解を取り持つことになっていた。