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 いかがだろうか。100人近い女性が怒りにまかせて家財道具を破壊する光景を想像すると凄まじいものがあるが、中世のうわなり打ちと比べると、やや牧歌的な印象がぬぐえないのではないだろうか。鎌倉~室町のうわなり打ちは相手の命までが狙われたが、ここでは刃物は自主規制されており、事前通告や和解のルールも整っていて、さながらゲームのような趣きである。授業を聴いた女子学生のなかには、「これなら私も参加してみたい」という子までいたぐらいである。ターゲットが台所というのも、当時、台所が“女の城”と考えられていたことを思えば、そこを破壊することは物質的な破壊を目的にしたというよりも、象徴的な儀礼としての意味合いのほうが強そうな気がする。うわなり打ちは、江戸時代に入って〈復讐〉から〈儀礼〉へと姿を変えてしまったのである。

 しかし、この時期、べつに江戸幕府から「うわなり打ち禁止令」なる法令が出された形跡はない。むしろ当事者たちのあいだで、憎悪の感情に任せた復讐を自主規制する動きが現れてきた結果、うわなり打ちはその姿を変えたと見るべきだろう。中世から近世へ、時代は〈復讐〉や〈暴力〉をネガティブなものとする方向へと確実に変化しており、それにともなって、うわなり打ちも姿を変えていったのである。

 この逸話を載せる『八十翁疇昔話』も、すでにこの話を「百二三十年以前」の話として紹介しており、同時代である享保期にはすでにうわなり打ちは行われないものとなっていた。一夫一妻多妾制の弊害はなんら克服されてはいなかったものの、その怒りを同性に暴力で向けるような行為は、もはや時代遅れのものになっていたのである。

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 そういえば、いまでも思い出す教室の光景がある。「考えてみれば、浮気をしたパートナーに怒りをぶつけず、浮気相手の女を恨むのって、筋違いだと思いませんか? 本来、悪いのは浮気した男のはずですよねえ。みなさん、どう思います?」。大学の教員になった初めての年、私が教室でうわなり打ちについての問いを投げかけたとき、前のほうの席でひたすら首を横に振っていた女の子がいた。「え? そこのキミ、納得できない? やっぱり悪いのは奪った女のほう?」。そう尋ねたら、その子は険しい顔で、ただ強くうなずいたのだった。「……(冷汗)」。たぶん彼氏と、いろいろあったんだろうな……。

 あの場で、教員としてうまい返しができなかったのが、いまでも少し悔やまれる。大学教員は古文書が読めるだけではダメなのだ。それ以来、女性の嫉妬をどう学問的に説明するか、試行錯誤の講義を重ねた。あれから10年、教員として多少の実力もついた。いまならあの女子学生にも、もう少しマシな返答ができるかも知れない。