5年間一軍登録なく引退した選手がいる。けれども、その選手は昼夜問わず練習し、誰からも一目置かれる存在だった。

「濃い5年間でした。小学生からお山の大将で野球をやってきて、プロになって上手くいかなかったけど、いろんな人の想いや気持ちを知ることができ人間として成長できました」

 元横浜DeNAベイスターズの渡邊雄貴は満足そうにそう言った。コアなファンからは「なべゆ」の愛称で親しまれ、2016年に引退すると、2019年から横浜スタジアムからほど近い場所で『BAR Forty Four』を経営している。

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現在はハマスタからほど近い常磐町で『BAR Forty Four』を経営している(撮影は緊急事態宣言以前) ©石塚隆

「野球が嫌いになりました」入団してすぐに渡邊を襲った悪夢

 苦しいことの多いプロ生活だったが、目を閉じれば、いい思い出と感謝ばかりが脳裏に浮かんでくる――。

 今年で球団創設10周年を迎える横浜DeNAベイスターズであるが、振り返れば前親会社の最後の大仕事となったのが2011年のドラフト会議である。そこで3位指名を受けたのが渡邊だ。岡山県の関西高校の主将として3年のとき春夏連続で甲子園出場。夏の大会では全試合で安打を放ちベスト4進出に貢献。好打の内野手として名の知れた存在だった。

入団時の渡邊雄貴 ©時事通信社

 ドラフト同期には桑原将志、乙坂智、髙城俊人ら現在も活躍している面々がいるが、このドラフトは当時低迷期にあったベイスターズにあって指名選手のほとんどが高校生であり物議を醸していた。即戦力が必要なチーム状況であったが、当の本人は「僕らにそんなことは関係なかった」と意気揚々とプロへの道に進んでいった。

 だが入団してすぐに渡邊を悪夢が襲う。キャンプのときイップスになってしまったのだ。

「ボールが指に掛かる感覚がなくなり、投げ方がわからなくなってしまったんです」

 ファースト以外の内野を守っていた渡邊だったが、送球はもちろん、ボールまわしでも相手ベンチに放り込んでしまう始末。

「恥ずかしくて、野球が嫌いになりましたね」

 試合には出たくなかったし、とてもではないが自分が一軍で通用する選手になれると思えなかった。腐りそうになったが、とにかく練習に明け暮れた。早朝や夜間は当たり前、ひとりでネットに向かいスローイングをする日々。周囲のサポートもあり、確実とはいえないが3年目でだいたいの場所には投げられるようになった。またファームで打率.266を記録し、渡邊は4年目を迎えることができた。

 そして開幕前のこと、ファームの山下大輔監督に呼び出された。気持ちも若干切れ気味だったこともあり怒られるのかと身構えたが、山下監督から伝えられたのは外野手転向だった。長いあいだ送球で苦しんでいた渡邊は、ふたつ返事で「お願いします」と言った。

渡邊の胸を熱くさせた万永コーチからの言葉

 山下監督は内野守備・走塁コーチの万永貴司と話をしろ、と言った。1998年の日本一戦士であり、鉄壁の内野にあってバックアップを務めた守備のスペシャリスト。まさに“いぶし銀”とは万永のことだ。

 万永はここまで渡邊に付きっきりで指導してくれたコーチだった。毎日、自分のためだけに早出をしてくれてノックを打ってくれた。

「ここまで付き合っていただいて、本当に申し訳ありません。また明日から頑張ります」

 渡邊は正直に言い、頭を下げた。

 すると万永は意を汲み取り、言葉を返す。

「ナベがその気持ちなら、俺もすっきりしたよ。俺の力で気持ちよく投げられるようにできなくて申し訳なかったな」

 そう言って謝る万永を見て渡邊の胸は熱くなった。試合に出たくないと渡邊が言っても、万永は「ナベ、大丈夫や。ミスってもエラーをしても使ったこっちの責任だから思いっ切りやれ」と声を掛けてくれたことを思い出す。

 翌日から外野の守備に入ると、不思議なことにイップスはきれいに消え失せていた。