1ページ目から読む
3/3ページ目

進んでいた「64」への厳しいマーク

 さらに「64」の発売の遅れも響きました。PSとサターンは1994年の年末商戦に登場したので、1996年の発売は1年半遅れの状態。週刊東洋経済(1997年3月22日)をみると、任天堂の山内溥社長(当時)の発言として「六四ビット機(編集部注・『64』のこと)は本当は95年の末から出したかった。予定より一年遅れた」とあります。「64」の初動も悪くなかったのですが、「PS」は先行者の“利”と、ソニーブランドの強み、ソフトメーカーの支持を生かして、先にシェアを固めてしまう流れになったのです。  

 また、当時「64」へは厳しいマークもありました。1996年6月に発売された「64」の価格は2万5000円でしたが、同年4月にセガは「セガサターン」を2万円に、同年6月にはソニーもPSを1万9800円に値下げしています。いかに「64」が恐れられていたかが分かる値段設定です。

 先にもあげたとおり、任天堂のゲームは、老若男女・国籍を問わず遊べ、世界各国で売れるのが強みです。ところが当時、任天堂のゲーム機は「子供向け」というイメージがありました。

ADVERTISEMENT

 対するPSはソフトメーカーの参入を促し、どんどんソフトを発売できる環境を整えました。結果、大人も楽しめるゲームや、女性層も取り込んだゲームが誕生。新機軸のゲームを次々に生み出して人気を獲得していきました。

 ソニーと任天堂は元々、一緒にゲーム機を作っていた間柄でした。しかし決裂する形で、ソニーが単独でゲームビジネスに参戦。PSへとつながっていきます。その執念が勝った形といえるでしょう。

「次世代ゲーム機戦争」のその後

 1990年代半ばに勃発した「スーパーファミコン」の次世代をめぐる戦いにおいて、任天堂は王座から転落しました。では、「64」の挑戦は単なる失敗に終わったのでしょうか。

 ここで、「64」後の任天堂の決算を見てみましょう。ゲームのビジネスはアップダウンの激しい「水もの」ですが、2000年3月期の決算でも任天堂には約5900億円の「現金」がありました。任天堂が本当に苦戦するのは、「Wii U」の失速と、ニンテンドー3DSの値下げが響いた2012年3月期から2014年3月期までの3年間。それに比べると任天堂の経営はなお盤石だったとも言えるもので、「64」は王座こそ失ったものの、ビジネスとして一定の成果を収めた形になっています。

 長期的スパンでみると、「64」経験は「ゲームキューブ」を経て「Wii」での“復権”につながっていきます。また、少数精鋭で生み出されていった作品には名作も多く、「大ヒットゲーム機」となったSwitchで今なお、その当時に生まれた名作の最新作が生み出されています。「64」は、後世に多くの“遺産”を残しているのです。