「やりすぎない、言い過ぎない。でも半歩踏み込む」
『ゆるキャン△』が描く、キャンプ場にゆっくりと流れる透明な時間は、このミネラルウォーター、「おいしい水」に似ていると思う。
アニメ版のプロデューサー堀田氏が前出のインタビューで語った「やりすぎるとやはり『ゆるキャン△』らしくなくなってしまう。『(演出が)濃い』と言われると、まず何よりも作品に嫌われてしまいます。なるべくやりすぎない、言い過ぎない。でも、以前よりは半歩踏み込んでみる」という言葉が象徴的だが、表面的にはいわゆるエンタメとしての「濃い」味付けを排除しながら、そこに目に見えないミネラルのように、観客の心に必要なものを含めている。
一人でキャンプを張る「ソロキャン」を愛する志摩リンと、学校の仲間達とグループで楽しくキャンプを張る「グルキャン」のふたつの世界が、どちらが優劣をつけるわけでもなく並行にすすみ、そこで言葉にできない何かが語られていく。
キャラクターたちは、「なぜキャンプが素晴らしいのか」といった作品のテーマを言葉で語ることはしない。だが、物語の中には明らかに目に見えないミネラルが豊富に含まれている。それが『ゆるキャン△』という繊細な作品の構造だと思う。
実写ドラマ化に当初、ファンから不安や反発があったのは、『ゆるキャン』という稀有な作品の繊細なバランスを崩してしまうのではないか、いかにも民放ドラマ的などぎついお祭り演出にされてしまうのではないかという反発もあったのだろう。
実写版のプロデューサー藤野慎也はテレ東プラスのインタビューで、「(事前の反発に)正直『うわー、ここまで言われるんだ』とへこみました」と語るが、それだけ愛されている作品なのだから泥を塗ってはならない、と奮闘する。
志摩リンが劇中で読む架空の奇妙な書籍を小道具としてそのまま忠実に再現し、劇中に登場する自動車は、熱心なファンが色もカスタマイズもナンバーもそっくりに似せたものを相談して借り受けて撮影に使ったという。原作やアニメと同じようにたっぷりと演出に時間をとり、作品の命であるゆるやかなリズムを守った。
そして実写作品の何よりも強力な武器は、本物のキャンプ場で行うロケだ。夜の暗さ、焚き火の光、そうした現実の井戸から汲み上げる水のように清新な映像は、初回放送からファンの評価を一変させていった。