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2021/06/28

source : ノンフィクション出版

genre : エンタメ, スポーツ

 野村が克則本人に、それを尋ねることはなかった。野村は、複雑な思いを、克則の妻である有紀子に打ち明けた。

「克則には申し訳ないことをした。かわいそうな思いをさせたのかもしれん。会わせて良かったのか……。いまでもわからん。克則を傷つけていなければいいのだが……」

 義理の娘がその迷いを打ち消した。

「克則さんも、もう二人の子のお父さんですし、四十いくつのおじさんですから、大丈夫ですよ」

 克則も同じ思いだった。

「たとえ夫婦に何があったとしても、子どもには何の罪もない」という思いがあった。自身が二人の子に愛情を注ぐ立場になったことで、父の複雑な心に寄り添う準備はできていた。

 父は最後の時間を使って、両方の息子をつないだ。私はそれを知り、驚きつつ胸をなでおろした。

阪神時代、何度か会っていたみたい

 ごく何気ない口ぶりで、克則が続けた。

「家庭で口にすることはなかったけど、親父、もう一人の息子さんの連絡先、ずいぶん前から知っていたよ。阪神時代や関西で遠征に行ったとき、何度か会っていたみたい。その方は、関西に住んでいらっしゃるから」

 息をのんだ。先妻や南海の関係者と夫が接触することを嫌った沙知代に配慮しながら、ひそやかに息子と会っていたのか。

 私は驚きながら、しこりのように残っていた疑問が解けた。

「もう一人の息子さんと、会っていないんですか?」

 と私が尋ねたとき、

 野村は「会って……阪神で……いや、会って、ないな……」

 と不自然な言い回しで、否定し、言いかけた続きの言葉を飲み込んでいたのだ。

 事実を知り、胸に熱いものがこみ上げた。

「情が深い」と自他ともに認める野村が、生き別れになった息子を気にかけていないわけがなかった。ひそかに愛情を注いでいた。そして、死を予期した父は、野村のDNAを受け継ぐ息子たちを引き合わせた。

「もう一人のお兄さんと僕は、これまでまったく違う人生を歩んできた。それが、こうして親父を挟んで会う。その半年後に親父が亡くなったというタイミングも含めて、すごく不思議というか……。『会って良かった』。そういう思いがこみ上げてきた。親父が亡くなったときも、すぐにあちらから連絡があって。2月14日に東京で行った家族葬の際も、こちらから知らせて、関西から出席してくれた」

 家族葬では、白い花を大きな野球ボールに見立てた祭壇が野村を包んだ。そして、野村が眠る墓の両側に、野球ボールのモニュメントが彫り込まれた。