いまから100年前のきょう、1917(大正6)年10月24日、建築家の片山東熊(とうくま)が死去した。嘉永6年12月20日(1854年1月18日)長門国(山口県)生まれ(※)。享年64。赤坂離宮(現在の迎賓館)をはじめ、帝国奈良博物館(のち奈良帝室博物館、現・奈良国立博物館)、帝国京都博物館(のち京都帝室博物館、現・京都国立博物館)、東京帝室博物館(現・東京国立博物館)の表慶館など、多くの皇室建築を手がけた。
工部大学校造家学科(現在の東大工学部建築学科)の第1回生として、辰野金吾らとともにジョサイア・コンドルに学ぶ。1879(明治12)年に卒業したのち、工部省技手などを経て86年より宮内省に出仕、89年には宮廷営繕のための組織である内匠寮(たくみりょう)の匠師となり、1915年に宮中顧問官に任ぜられて辞すまで、一生の大半を宮廷建築家として送った。
皇太子(のちの大正天皇)の居所(東宮御所)として建てられた赤坂離宮は、片山の畢生の大作であり、生涯5回におよぶ欧米視察からフランスバロックの強い影響を受けている。着工より10年をかけて1909年に完成。このとき片山は写真帖を持参して明治天皇に報告するも、天皇はただ一言「ぜいたくだ」とだけ洩らして、口をつぐんだという。これに片山はショックを受け、長らく床に伏し、回復のあとも仕事は下僚にまかせるようになったと伝えられる。晩年は自宅の庭の温室にこもり蘭の栽培をしながら日々をすごした(藤森照信『日本の近代建築(上)―幕末・明治篇―』岩波新書)。
赤坂離宮は、1923年に結婚間近の皇太子(のちの昭和天皇)が一時入居した以外は、東宮御所として使われることはないまま、戦後、48(昭和23)年に皇室財産から政府に移管された。その後は、国立国会図書館や内閣法制局、またオリンピック東京大会組織委員会など各機関が置かれたが、67年に迎賓館に改められることが決定、建築家の村野藤吾の監修による改修工事を経て、74年に竣工する。さらに2006(平成18)年から3年にわたり平成の大改修が行なわれ、09年には明治以降の建築では初めて国宝に指定された。昨年4月からは、賓客の接遇などに支障のない範囲で、年間を通して一般公開されている。
※片山東熊の生年月日については嘉永6年12月19日あるいは安政元年12月20日、また、命日を10月23日とする資料もあるが、ここでは土崎紀子・沢良子編『建築人物群像 追悼篇/資料編』(住まいの図書館出版局)を典拠とした。