広末涼子や木村拓哉、イチローなど多くの有名人に愛され、高値で取引されるようになったエア マックス95。人気はどんどん過熱し、若者らの間でエア マックス95を履いている人を襲撃する「エア マックス狩り」が横行するほど、異様な熱狂が広がった。一足のスニーカーがなぜそれほどまでに人々を夢中にさせたのだろうか。
フリー編集者小澤匡行氏の著書『1995年のエア マックス』(中公新書ラクレ)の一部を再編集し、紹介する。(全2回の2回目/前編を読む)
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1997年の「エア マックス95」
日本での「エア マックス95」人気は、1997年の前半まで上昇の一途を辿っていた。
結局、OG(オリジナル)と呼ばれる初期カラーは全部で8色出たが、最初期の「イエローグラデ」がやはり人気で、市場価格は桁違いに跳ね上がっていき、未使用のデッドストックは15万円を超える値段で販売されるようになった。
著者としては、SMAP のヒット曲「SHAKE」(ビクターエンタテインメント)のシングルCDジャケットで木村拓哉が着用していたのが印象的だった。なおモノクロ写真が使われていたにもかかわらず、著者が「イエローグラデ」であることをすぐに判別できたのは、8色あるオリジナルカラーのうち、それが唯一の黒ソールだったからに相違ない。
スラム化し始めたスニーカーマーケット
この頃、スニーカーファン以外を巻き込んだ発展途上のマーケットは、ストリートと言うより、スラム街とでも呼びたくなるような惨状を呈していた。
アメリカでの買い付けも既に限界を超えており、全米中の「エア マックス」は、ほとんど日本人によって奪取されたと言って過言ではないだろう。「そこからここまで全部」「店にあるサイズは全部買います」「倉庫のストックを見せてもらえますか?」。バイヤーたちの猟奇的と言えそうな行為や言動に、現地のショップも次第に訝しむ目つきを向けるようになった。
日本ではバブル経済の崩壊後、基本的に円高の流れが続いていた。国内の投資家の海外投資の引き揚げや1994年末のメキシコ通貨危機の影響もあり、1995年に初めて1ドル=80円割れを記録している。それだけに、この頃は人気スニーカーを現地で仕入れられれば、得られる利幅が大きかったのである。