私たちの社会の様々な思い込みを解きほぐす、『他者の靴を履く アナーキック・エンパシーのすすめ』(文藝春秋)が話題のブレイディみかこさん。自助の精神からジェンダーロールまで、私たちはエンパシー(=意見の異なる相手を理解する知的能力)をどのように役立てればよいのだろうか。7月8日放送の「クローズアップ現代+」(NHK)への出演に寄せて、インタビューを再公開する。(全2回の1回目。後編を読む)
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エンパシーが万能薬だと思われるのはちょっとマズい
――近年、日本でも、いわゆるシンパシー(共感)ではなく、〈知的能力・スキルとしての他者理解〉エンパシーという概念に注目が集まっていることについてどう思われますか。
ブレイディ 「エンパシー」はたとえばイギリスでは何年も前から日常的に言われていて、米国のオバマ大統領とかも好んでスピーチで使っていた言葉です。日本では、「エンパシー」は「共感」と訳されることが多かったですよね。でも、多様性への理解が求められる時代の流れのなか、「共感」では解決できないもやもやした思いを抱えていたところに、自分とは異なる考えを持つ相手の立場に立って考えてみる、〈他者の靴を履いてみる〉知的な作業としてのエンパシーという概念が、新鮮に受け止められたのだと思います。
『ぼくイエ』を読んだたくさんの方がエンパシーについてSNSで好意的に言及してくださったのですが、欧米では「エンパシー論争」も起きていて、エンパシーは危険なものにもなり得るという論者も存在したので、素朴にエンパシーがすべての万能薬だと思われるのはちょっとマズいなと思っていました。だから今回の本では反エンパシー論者たちの主張も臆さずに取り上げています。
――エンパシーは多様性を促進する切り札ではないのでしょうか?
ブレイディ エンパシーを単にダイバーシティ推進の万能スキルのようなものとして捉えると本質を見誤るかもしれません。
そもそも多様性が進むところに分断は存在します。「私たちはこんなやり方はしない」「そんなふうには考えない」という違いが必ず出てきます。私の住んでいるイギリスのブライトンはもともと白人のミドルクラスの人たちが多い労働者階級の街だったのですが、サッチャー時代に払い下げされた元公営住宅地が手頃な価格でそれほど値上がりしないこともあり、ここ20年で大家族の移民が続々と引越しをしてきました。まさに多様性のるつぼで、階層も国籍も出身地も様々で、ともすると隣の家で話してる言語も違ったりするほど。
だから、多様性は「認めましょう」「促進しましょう」と言う類のものではなく、「あなたが好きだろうが嫌いだろうが」既にそこにリアルにあるものです。「分断を乗り越えようよ」と言ったって、隣の家と話してる言葉すら違ったり宗教も違えば、子育てひとつとっても「私は絶対にそうしない」ということが沢山出てきます。