1ページ目から読む
3/4ページ目

 その回に出てくる事件や人物にまつわる解説が2分足らずでまとめられているのだが、その切り口が毎回ユニークだった。第4回では、天下人である秀吉・家康と政宗の年齢差は、現代のプロ野球界に置き換えると、長嶋茂雄と王貞治、そして放送の前年にデビューしたばかりだった清原和博の年齢差とほぼ同じだと説明した上、自身も天下を狙っていた政宗の「せめて20年早く生まれていたら」との言葉を紹介している。

視聴者の度肝を抜いたオープニング

 あるいは、放送日がちょうど政宗の命日(5月24日)と重なった第21回では、その日、仙台で行われた遠年忌法要をアナウンサーがレポートし、ほぼニュースの様相を呈した。このほか、劇中に出てくる場所や、あるいはその場面の登場しない本能寺や関ケ原についても、それぞれ現在の風景を映しながら紹介する回もあった。こうしたドラマゆかりの地をたどる趣向は、その後、『太平記』(1991年)より番組終わりの1コーナーに引き継がれ、現在も続いている。

『独眼竜政宗』はジェームス三木が初めて手がけた大河ドラマである。第1回のアバンタイトルでは、1974年に政宗の墓を改葬するにあたって遺骨が発掘されたときの映像が流れたのに続き、政宗の頭蓋骨がアップで映し出され、当時小学生だった筆者は衝撃を受けたのを思い出す。そこには、《新しい大河ドラマは、綺麗ごとではなく、どろどろした人物の内面を、あからさまに絞り出そう》というジェームスの決意が込められていたという(『片道の人生』)。

ADVERTISEMENT

ジェームス三木 ©文藝春秋

 視聴者の度肝を抜いた大河の初回オープニングといえば、第3作にあたる『太閤記』(1965年)では前年に開業してまもない東海道新幹線が登場し、NHKの局内で「報道映像が誤って流れたのか」と大騒ぎになったという(残念ながら、このときの映像は現存しないが)。これは、新幹線が名古屋駅に到着したところで、一気に戦国時代の尾張へと飛び、緒形拳扮する少年時代の豊臣秀吉が登場するという演出であった。

『太閤記』のディレクターの吉田直哉はそれまでドキュメンタリーを撮ってきた経験から、大河でも「過去と現代の対話」をテーマに打ち出し、初回から思い切った冒険に出たのである。吉田はその後も、翌年に担当した『源義経』を含め、ことあるごとにドラマを中断しては「その場所はいま……」を描くシーンを挿入した。その際、古戦場はいまや宅地造成により巨大団地に変わりつつあるなどといった説明を入れたので、「社会科ドラマ」の異名をとるほどであったという。