「オヤジと一緒にいなかったから手本がないからね」
薫のデビュー作『恋する女たち』は3人の女子高生の恋と友情を描いた作品で、薫はヒロインの斉藤由貴に憧れる高校生を演じている。2年後、薫は、岸惠子と文太が主演の日本テレビ・水曜グランドロマン『バラ』(88年11月9日放映)で、文太と初共演する。この頃、同じ2世スターとして宍戸錠の息子・宍戸開もデビューしており、3年後の89年には『マイフェニックス』で、宍戸開と菅原薫という2世俳優同士が共演することになる。息子のためのバーターなのだろう。宍戸錠と文太も同作に特別出演している。
この他にも文太は各方面に対して息子を売り込んだものの、薫の映画出演は叶わなかった。息子を共演させたくとも、文太自身の出演作品が減少していたからである。「頼れるものは自分だけだ」と話す一方で、文太は息子を応援してやりたくて、奔走した。
“親の心子知らず”というが、父親の存在が重すぎたのか、あるいは干渉されるのが苦痛だったのか、薫は3年ほどで芸能活動を辞めてしまう。高校卒業後は、ミュージシャンになるべく、音楽学校に通い始めた。このときも文太は薫の意思を尊重して、特に反対はしなかったという。
後年、スポーツ紙で「親父って何だ?」というテーマの取材を受けたとき、文太は戦争のせいで、自分には甘えられる父親がいなかったことを話し、自身のオヤジぶりについても語った。
やっぱり、オヤジと一緒にいなかったから手本がないからね、オヤジ下手だね。長男が最初に生まれたときは、喜びと戸惑いがあったな。初めての分身だから不思議な感じがして、考えてしまったよ。自分が父親に育てられた記憶がないから、手探りの中で付き合っていったんじゃないかな(「日刊スポーツ」95年11月19日)
放任主義だとも話すが、薫の将来が気になり、世話を焼かずにいられなかった。
息子には甘い父親だったが、50代半ばになった文太は、市川崑監督の作品で魅力的な大人の男の佇まいを見せる。
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