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「要するに子供たちの応援団ではないのか」

『青春の門』が公開された81年、文太はガッツ石松の呼びかけに応じて「雷おやじの会」を結成していた。これまで母親に任せていた子育てを見直し、改めて父親の存在価値を認めさせるという趣旨で、文太が会長、メンバーには冒険家の植村直己、国会議員の八代英太、漫画家の加藤芳郎、花籠親方(元横綱・輪島)らが名を連ねた。

 結成の会見で、文太はまず「決して封建的な雷おやじの復活を図るわけじゃない」と断り、「あの世に片足をつっこんでいる自分たちにできること」について語った。

「雷おやじの会」の目的は一体、なんだろうかという話が出た中で三浦(雄一郎)氏が「要するに子供たちの応援団ではないのか」と問いかけたので、ぼくは「ウン、確かにその面もある」と答えて(中略)。サゼッションをしたり、エールを送ってやったりすることができれば、それが、会のメンバーにとって望外の喜び(「サンデー毎日」83年3月13日号)

※写真はイメージです ©iStock.com

 いじめの件が影響したのか、文太は都内の高校ではなく、85年に開校したばかりの「自由の森学園」(埼玉県飯能市)に薫を入学させた。偏差値を重視する点数序列主義ではなく、生徒一人ひとりの個性を育むことを教育理念として、校則もテストもないという学校である。

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 宮本和英は、15歳になった薫を見たときに、ある予感を持ったという。

「足が長くて、スラリとしていてね。これはもう、周りがほうっておかないだろうな、と思ったんです。きっと芸能人になるだろうというオーラがあった」

 その予感は当たり、薫は学園に在学中の16歳で、芸能界デビューを果たす。以後の文太は、自分の芸能活動より息子の支援を優先するようになった。

別居について記者が文太を直撃すると...

 85年はプライベート面でも大きな変化があった。まず3月下旬、写真誌のFRIDAYに「菅原文太夫妻が別居へ」という記事が掲載された。写真は2枚あり、1枚は文太が八百屋の前に雪駄履きで立っている写真。2枚目は妻の文子(当時は[文/あや])が食品を詰めた袋を提げて路上を歩いている写真だが、このあと文子は都内のマンションに入っていったという。

 実は昨年の10月から、長女(18)がマンションを借りて生活を始め、チェッカーズヘアの長男(15)も、洗濯物を下げて、コインランドリー通いする姿が見られるようになった。そこへ文夫人(中略)がパンや食料品を持って、出入りするようになった(「FRIDAY」85年3月22日号)

 夫婦が別居しているという噂を聞きつけた同誌記者が文太を直撃すると、一笑に付した。

 娘が別居しているのは(中略)受験勉強が目的ですよ。女房はうちにいるし(同)