「男が惚れる男」として、東映を代表する名俳優だった菅原文太氏。意外と知られていない彼の意外な素顔とは……。

 ここでは、松田優作氏の元妻で、現在は作家として活躍する松田美智子氏の著書『仁義なき戦い 菅原文太伝』(新潮社)の一部を抜粋。膨大な資料と関係者の貴重な証言を重ね合わせ、菅原文太の姿に迫る。(全2回の2回目/前編を読む)

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子供のために

 文太は住吉会とも交流があった。後年、住吉会会長の娘の結婚式に夫婦で出席した姿が撮影されている。このとき参列者として名前が挙がったのは、吉幾三、木梨憲武、内田裕也など。暴力団との交流は芸能人だけでなく、プロ野球、大相撲、プロレス、ボクシングなどスポーツ界にも広がっていて、その関係は、避けては通れない必要悪のようなものだった。

 ただし、「山一抗争」が勃発した84年あたりから、文太はヤクザ映画の出演を辞退するようになり、東映ではなく、東宝映画の出演本数を増やしていった。

 85年から89年までの5年間に文太が出演した東宝作品は、85年『ビルマの竪琴』(監督・市川崑)、86年『鹿鳴館』(同)、87年『映画女優』(同)、『黒いドレスの女』(監督・崔洋一)、88年『つる 鶴』(監督・市川崑)、89年『YAWARA!』(監督・吉田一夫)、『マイフェニックス』(監督・西河克己)、『開港風雲録 YOUNG JAPAN』(監督・大山勝美)の8作で、主演作品はなく、どれも助演クラスの出演である。

 社会問題になった抗争も影響していただろうが、文太がヤクザ映画から遠ざかった理由のひとつに、自身の子供たちへの配慮があったように思える。

 長男の薫が中学のとき、イジメにあっていることを聞いた文太は、菅田俊(編集部注:当時、宇梶剛士らと共に菅原文太の付き人を務めていた)に頼んだ。

「オヤジから『子供同士の喧嘩なので、親が出るほどのことではないが、事情を知りたいから、調べてみてくれ』と言われて、宇梶(剛士)と一緒に薫が通っていた学校へ行きました」

 薫は文太のサインや物品を持ってくるよう、脅されていたという。菅田が調べたところ、脅した生徒の背後には、ヤクザと関係がある19歳の暴走族の頭がいることが分かった。

「薫だけじゃなくて、同級生も脅されていたので、そいつをさらいに行ったんです。逃げ回るのを追いかけてなんとか捕まえ、家に連れて行きました」

 菅田俊と宇梶剛士という強面の2人がいきなり現れ、19歳の暴走族はさぞ驚いたことだろう。彼は文太に説教され「雷おやじの会」の本を貰って帰ったという。