脇役から徐々に頭角を現し、『仁義なき戦い』シリーズへの出演で、押しも押されぬ東映の大スターとなった菅原文太氏。数々の映画ファンを魅了した男の意外な素顔、大ヒット作の舞台裏、そして揺れ動いていた心中とは……。

 ここでは作家の松田美智子氏の著書『仁義なき戦い 菅原文太伝』(新潮社)の一部を抜粋。関係者の証言をもとに、在りし日の菅原文太伝説を振り返る。(全2回の1回目/後編を読む)

菅原文太氏 ©文藝春秋

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マイペースの頑固者

『仁義なき戦い 代理戦争』の公開を終えたあたりから、文太の身辺が慌ただしくなってきた。

 まず、シリーズの成功を受けて、取材の申し込みが殺到し、マスコミへの露出がかつてないほど増えた。著名人との対談も、短期間に数多くこなしている。付き人も、最初は1人だけだったが、数人抱えるようになった。

 また、1作目は200万円だった出演料が倍近くになり、100万円の大入り袋もなんどか受け取っている。公務員の初任給が8万6000円、山手線の初乗り運賃が60円(76年統計)の時代である。出演料の200万円は現在の600万円くらいの価値があっただろう。

「自分はこれまで根無し草のように住居を転々としてきた」と語っていた文太は、この頃、杉並区南荻窪に自宅を購入した。次女が生まれ、3人の子供の父親にもなっていた。

 本人は多忙を極め、東京と京都の撮影所をひたすら往復する日々だったが、麻雀好きなので、その時々のメンバーと卓を囲んだ。

 文太の最初の付き人だった司裕介は、「オヤジは、手のかからない人だった」と振り返る。

「オヤジが麻雀しているときに、僕が『帰ります』というと『おおそうか、ご苦労さん』という感じでね。自分の身の回りのことは自分でやるし、必要な物は本人が買ってきた」

 麻雀には、性格が出た。山城新伍が文太と卓を囲んだときのことを回想している。

 彼の人生がたぶんそうであったように、パイの1枚1枚を、あまりにゆっくり慎重に切るものだから、いちじるしくリズムが乱れ、気の短い渡瀬恒彦などはいらいらのしっぱなしで、結果は文ちゃんのペースに乗せられて負けてしまうという、なんといわれても自分のペースをくずさない頑固者の一面を見せる(「週刊女性」76年1月1日号)

 山城は、そんな文太に、東北人独特のバイタリティを感じたという。「文太は頑固者」という点では梅宮辰夫の意見も一致している。